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2016年12月

2016年12月28日 (水)

あさ吉の思い出日記(47-1003) 12月28日(水) 戦争と平和

安倍首相がオバマ大統領と共に、真珠湾を訪問し慰霊した。ご本人は否定しておられるが、広島訪問の答礼と考えていいだろう。そしてお互いにお悔やみは述べたが、謝罪はしなかった。

ところであさ吉自身に戦争の記憶はない。1942年生まれの世代は、記憶のある人とない人が混在している微妙な年代なのです。終戦の時には2歳11ヶ月だった。ま、一般的には記憶している年齢ではない。そのことが幸せでもあり、不幸とも云える。悲惨な記憶がフラッシュバックされてトラウマになることはなかった。

幼児体験の原点は、夢ともうつつともはっきりしない断片的な記憶である。これが鮮明な思い出としてはっきりしてくるのは、終戦直後の様々な光景である。それ以後、平和な世の中が70年余続いている。黒船来航以降、日本は内乱、対外戦争を相次いで繰り返してきた。対外的な戦いで決定的な負け戦を経験しなかったことが、ある意味で不幸だった。

1945年にコテンパンに負けてしまった。負け方がひどかった為に、その反動として戦争を恐れ、そして極力避けてきたと云えるのではないか。日本人は熱しやすく冷めやすい民族ともされてきたが、こと戦争の悲惨さだけは身に染みたのである。更に冷静に考えると、財閥の解体、軍部の解体、そして新憲法の発布が日本の戦後を決定づけたとあさ吉は考える。今も旧財閥の血を引いた企業は大企業として存在するし、自衛隊も存在するが、いずれも似て非なるものと考えていいのでは?それだけ敗戦のインパクトは大きかった。

終戦と同時に日本の教育はひっくり返った。戸惑い、怒りを覚えた人も多かっただろうが、大多数の国民は受け入れた。したたかな民族と云える。あさ吉の教科書は戦後に印刷された粗悪なものだったが、もう墨を塗らなくて済むように新しく改訂されたものが配られた。

天皇の為に命を捧げるよう強制されたにもかかわらず、戦後の昭和天皇の全国巡幸では熱狂的に「天皇陛下万歳!」を叫び続けた。小学1年生だった1950年(昭和25)3月14日午前10時30分から5分間、我が村の奉迎場にて村民は万歳三唱をした。陛下に向かって緊張した面持ちで当時の村長が音頭をとった。陛下は片手に帽子をとり女学校の運動場を埋めた村人たちに応えられた。

女の子が押しつぶされそうになって泣き叫び、消防団員に抱えられたりしていた光景がまざまざと浮かぶ。モチロン、天皇様を拝顔したのは初めて。その日のことは小学校に戻ってきてからのことも鮮明に記憶している。66年前の出来事だ。因みに時間が正確なのは、手元に刊行された記録誌があるからであるが、戦争に負けても国民が天皇を恨んでいなかったことだけは、幼い子どもにも強烈な印象として残ったわけである。

日本人と云うものは、よく云えばたくましく、したたかでもある。そしてこれが奇跡的な70余年の平和を守ってきたのだろう。それだけに謝罪もしないことに対し、特に中国や韓国から見たら、相変わらず不気味な民族にも見えるのではないか?このことについては、また考えてみたい。

2016年12月27日 (火)

あさ彦の爺(じじ)放談(59-1002) 12月27日(火) 余裕のない日本人

あさ彦自身を含めてどうも日本人全般に、心の余裕が失われてきているような気がする。たとえば、今日の夕方に聴いたラジオからの話に、ベビーカーを電車に乗せたら露骨にイヤな顔をされたとか・・・。それも昼間の空いてる時間帯をわざわざ選び、車いすやベビーカーの留め置きスペースのある車輌に乗っての話だそうだ。その場所には数人の若者が占拠してベビーカーを見ても知らん顔をしてたとか。

これらは助けを求めているかもしれない弱者に対する、無関心のなせる業だろう。或いは、そのスペースの意味を知らない無知が原因かもしれない。むしろ後者の理由が多い気もする。乳幼児を連れていれば、まだ外見だけでも認識は出来る。しかし、妊娠している女性に対してはどうか?あさ彦も白状すれば、娘がその立場になってワッペンだかバッジを付けて、初めてそのマークを知った有様だった。以後、それに気づいて一度だけ席を代わったことがあるが、あまりその機会がない。

これは日本人の心の余裕云々と云うより、道徳心の問題かもしれない。では今日の夕刊に出ていた記事だが、「除夜の鐘がうるさい」、「餅つきは食中毒の恐れがある」、と云った理由で数年前から各地で自粛の動きが広がっているそうだ。

これとは別に、どこの町だったか忘れたが、保育園の開設に反対する動きが広まって断念に追い込まれたとか。これも「子どもの声がウルサイ」と云う理由のようだ。しかも、クレームをつける階層は、50~60歳代以上の人たちに多いとの分析が出ているらしい。こうした理由で、日本の伝統行事が消えつつあり、育児に悩む人たちに更に石つぶてを投げつける結果になっているとしたら、我々はどうすればいいのか?

あさ彦自身も含めて、と冒頭に書かざるを得なかったのは、これらとは別に日常的に周囲を見回して、ささいなことで腹を立ててる自分に気づくからである。たとえば駅のホームでの整列乗車で、前の人と間隔を広く取って並んでる人(若い女性に多い)。そのために後ろが並べなくなっていたりする。それを見てあさ彦は腹がたつ。

朝の忙しい時間帯に、エスカレーターの左側(関西なら右側か?)に立った人が立ち止まったままで動かない。モチロンこれは悪くないどころか、右側を歩く人が間違ってるわけだが、何故かあさ彦はそのことにも腹がたつ。見ている限りでは、ラッシュ時間は左側の人たちも歩いているのが一般的だが、途中で止まるオッサンやオバちゃんがいると「非常識だ!」と内心イライラしているのである。そこには冷静なあさ彦の姿はない。

道端でうずくまっている人に対してはどうか?カミさんはそれを見て心配になり、声をかけようとする。むろん、これが正しいし親切だ。しかし、あさ彦はうずくまっている人を素早く観察して、手助けすべきかどうかを判断してしまう。これにはカミさんから「あんたは冷たい人だ!」と後からののしられる。その通りだろう。

あさ彦はなぜ躊躇するのか?まず、酔っ払いではと疑う。その場合、逆切れされてこちらの身が危険になる。だからその心配のない女性などにはモチロン手を差し伸べる。今まで、女性が倒れているのは見たことがない。男の場合が殆どでその9割は酒に酔いつぶれているとみている。触らぬ神に祟りなしだが、当然のことながら独善的な判断であり解釈であるとは自覚している。だから、あさ彦も余裕のない一人だ。

新しい年を迎えたら、素直な気持ちになれるだろうか?勢至菩薩様(あさ彦の守り本尊でございます)におすがりして、このひねくれた根性を正していただこうかなと思ってます。

2016年12月26日 (月)

asajiroの湘南日記(141-1001) 12月26日(月) 自転車泥棒

新たな1001回目のブログは、とても悲しくて悔しいお話でスタートします。我が家の自転車が盗まれてしまったのです(泣)。それも気づいたのは昨日の夕方、クリスマスの日でした。クリスマスと云えばサンタさんからプレゼントをいただいてもおかしくない日に、逆に大事な愛用の「自家用車」を失ったのです。悔しいと云ったらありゃしない。

普通なら新品だったり電動付きアシスト車が盗難に遭うものですが、そんな高級車ではありません。築26年ならぬ購入後26年も経った、重文級の時代ものです。団地内の駐輪場に停めていましたが、見るからに年季が入っていますので鍵なんぞかけたことがありません。油断と云うより想定外のことでした。

実は10年位前に別のチャリンコを近くの公民館前で盗まれたことがあります。その時は執念で見つけ出しました。今回も暗くなる前に、近くのスーパー辺りを探してみました。今朝は別の方向へ捜し歩きましたが、モチロン見つかりません。その足で、交番に立ち寄り被害届を出してきました。

26年前の購入時の防犯登録書が手元にありましたから、若いお巡りさんは親切に応対してくれました。asajiroも自転車を放置して捨てる人は多いが、新車でもないのに届ける人は極めて珍しいだろうと内心苦笑いしつつですが、不思議なもので愛着があるので放ってはおけません。特に最近は、車をやめることも考えねばと思案中でしたが、それも自転車があると云う前提。

以前のように執念で見つけ出すエネルギーはもうありません。部品を取り換えながら大事に使ってはきましたが、ま、無理でしょうな?お巡りさんが「平成2年は、ワタシの生まれる前でした」と云ったのには、ついもらい泣きならぬ貰い笑いしてしまいました。交番の中に「年末特別警戒」として自転車の盗難が増えています。鍵は二重ロックでかけましょう!と張り紙がありました。二重どころか無防備状態でしたから、警察で怒鳴られなかっただけでも良しとします。

また、壁には指名手配中の犯人や行方不明者の顔写真が所狭しと貼ってありました。あの凶悪犯人たちが、市民に混じって生活してると思うと確かにコワイ。顔や氏名が判ってても捕まらない犯人がたくさんいるわけだ。大みそかに起きた世田谷の一家4人殺害事件や葛飾の上智大生放火殺人事件に至っては、いまだに犯人像もわかっていない。

7年前山陰で起きた女子大生殺害遺棄事件は、ナント犯人が2日後に自動車事故で母親と共に死亡していたことが最近になってわかった。被害者がasajiroの郷里の県人だったこともあり、発生当時から心を痛めていた。想定外の決着だったが、asajiroは本人か母親かどちらかが仕掛けた無理心中ではなかったかと睨んでいる。警察も報道も交通事故としか発表してないが、怪しいもんだ。

スミマセン、チャリンコ事件が血なまぐさい話に発展して・・・。いずれにせよ、年末は何かと物騒です。皆さん、特別警戒しましょう。

2016年12月25日 (日)

あさちゃんの鎌倉日記(180-1000) 12月25日(日) 1,000回目のブログです

2010年(平成22年)の夏にスタートした弊ブログですが、今日で1,000回の大台に乗ることができました。別にブログランキングに参加するわけじゃないし、細々と日記風にアップし続けただけですが・・・。それでも延数万名の方々にご来訪いただきました。その皆さまの温かいお気持ちが、励みとなってきたことは確かです。

正直申し上げて写真を載せてるわけでもなく、詳しいレポートをしているものでもありません。その意味では自己満足に過ぎず、お役にはたっていないと自覚しております。そもそもの動機がエッセイ風に綴りたいと、身の程をわきまえない思いで始めたことです。

あさちゃんは手書きの日記帳は、日常の生活記録として記載しております。カミさんにも笑われていますが、何時何分に家を出たとか、どこそこに到着したとか・・・。そんなことを書いてバカじゃないのと。ハイ、その通りでございます。ただ、ガイドやアルバイトを何年も続けている関係上、派遣先の現場までの所要時間やガイドの歩行記録などは、とても大事なことでありまして・・・。

と云うわけで日記は純粋な記録、ブログはそれに感情を移入してと使い分けをしております。そして千回を迎えることができました。まったく更新できてない月もあったりして、極めて不規則な「ぐーたらブログ」ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。

先ほども申しましたように、写真は一切掲載しておりません。ブログの指南役としてご指導いただいたお江戸は浅草のご近所にお住まいのmamataroさまから、写真を載せたらとアドバイスをいただいたこともございます。実際、彼女のブログは素晴らしい。交通費が惜しくて上京する機会が減りまくっている身にとって、彼女のたくさんの写真は居ながらにして大江戸見物が出来る重宝なものです。

伊豆は下田温泉ご出身だそうですが、今や彼女は世界をときめく大江戸温泉物語でございます。しかしながら残念なことに、当方の写真はいまだに小学生(の方がもっとウマいか・・・)並で、パソコン技術も追い付かず断念しております。これからもフリーライターとしてご活躍中のmamataroさんの陰ながらのご指導をいただきつつ文章力を磨いてゆきますが、才能がありませんので我ながら期待はできません。

いつまで続けられるか・・・。がんばりま~す!

2016年12月24日 (土)

あさ爺の湘南・鎌倉ガイド(287-999) 12月24日(土) ガイド納め

12月10日、清仙会主催の恒例企画「あさ爺と歩く紅葉の鎌倉」本番を迎える。主催は青木清仙さん。人力車で有名な青木登氏の奥様である。本名は青木いづみさん、清仙は茶道の師匠としてのお名前。このシリーズも春と秋の年2回なので今回で5,6回目くらいかな?

今回は平家琵琶演奏会とのコラボで、北鎌倉の明月院と浄智寺を紅葉散策してから会場の長壽寺さんに入った。ここで昼食とお茶会があり、その後にご住職の法話と平家琵琶演奏会が行われた。

参加者に好評だったのは可愛いお嬢ちゃんたちによるお点前。清仙さんのお弟子さんで、皆さん小学校の低学年から幼稚園生。振り袖姿で作法通りにお茶をふるまう。その仕草がなんともほほえましい。お客様もにこにこしてお辞儀をしてお抹茶をいただく。お座敷から青空と紅葉を眺めながらの至福のひと時をお過ごしいただいた。

12月12日はあさ爺にとっては今年のガイド納めの日。先日下見をした七里ヶ浜から片瀬、江の島へのコースをご案内する。富士山、江の島、伊豆大島がくっきりと眺められ、お客様も満足されたと思う。ただ、あさ爺は反省しきり。龍口寺山門の透かし彫り彫刻の内容説明が長過ぎた。4枚あってすべて中国の史記を題材にしているのだが、あまりお客様には馴染みの薄い話だった。半分の2枚だけで説明を打ち切っても良かったのだが、その時は必死で思いが至らず。美術品の解説には興味のある人、ない人が混在しているのでガイドとしては難しいところがある。

12月20日は班の下見で、六会の雲昌寺、境川遊水地公園、天王森泉公園、俣野公園、横浜薬科大学を廻る。俣野公園と薬科大はかつての横浜ドリームランドの跡地。奈良ドリームランドを運営する会社が開設したが、バブルがはじけディズニーランドにお客をとられて閉鎖に追い込まれた。隣接する春日神社は春日大社から勧請した由緒正しきお社。苑内には鹿もたくさんおられて、ぴ~ぴ~と鳴きながら、エサをねだってくる。あさ爺は奈良も横浜も、ドリームランドに出かけた貴重な思い出がある。本番は2月22日。タイトルは「早春をたのしもう!」で、一足早い春の準備である。

翌21日は実習で藤沢七福神を廻る。これは毎年恒例の定番企画。講師はSさん。同期の8期生仲間だ。そして今日はクリスマスイヴ。カミさんが「大人にはクリスマスプレゼントはないのかなあ」と、あさ爺の顔を見ながらひとり言。「う~ん、聞いたことないなあ」と生返事して深入りしないよう話を打ち切った。それより、クリスマスの日にガイドがサンタさんの格好して教会を巡るのも企画として面白いかなと、つまらんことを考えるあさ爺でした。

2016年12月23日 (金)

asajiroの湘南日記(140-998) 12月23日(金) 天皇誕生日

11月14日、仕事で葉山に向かう。終わった後は近くの旭屋牛肉店(元町)で葉山コロッケを土産に買い、お店の前のテーブルで持参のおにぎりにコロッケを添えてお昼にするのが、葉山に来た時のasajiroのささやかな楽しみである。とんびが輪をかきながらコロッケを狙っているので、油断はできない。敵は上空にあり、である。

11月17日は鵠沼の現場で仕事。高架を走る江ノ電はこの場所からもよく見える。高架から住宅街へ。路面電車となったりビーチサイドを走ったり。富士山、江の島、伊豆大島や伊豆半島に七里ヶ浜や稲村ケ崎と変化に富んだ恵まれた観光電車でもある。

11月18日、夫婦共に咳が長引き、行きつけのクリニックへ。但し、別々の医院へ。今年の風邪?は咳が長引き、喉も苦しい。

11月20日は自治会の行事で草むしりをやった後、懇親会を開く。午後2時半から準備を始めて、お開きになったのは夜8時前だった。全世帯が参加してくれるのが理想だが、いつも6割から7割の世帯の参加で、懇親会となると更に少なくなる。顔ぶれが固定してしまって、自治会役員のasajiroとしても気がかり。

11月27日、宇都母知(うつもち)神社の収穫祭に出かける。慶応のキャンパスに近い田園地帯の中にある。お正月には毎年参拝している。温かいトン汁で暖をとる。周辺を散策してから車で寒川のわいわい市へ買い物に出かけた。JAの直売所である。

11月29日は藤沢の高台にある現場で仕事。翌日は畑(家庭菜園)でカミさんのお手伝い。主人公のお百姓さんは我が家の農婦さんで、ダンナは草むしりや木の枝伐り、水汲みと云った周辺業務。

12月2日、3日と続けて再び高台(藤が岡)にある仕事場へ通う。澄み切った青空に、純白の霊峰富士が聳える。

12月8日、EFGの月例会に先立って、時宗総本山の遊行寺本堂前に会員約50数名が集合。全員が黄色のベスト(ユニフォーム)を着用して、集合写真を撮影した。会報の新年号の一面を飾る写真だ。今年は設立20周年記念の年でもあったし、更に躍進を目指す気概を示す圧巻の写真になりそうだ。70名全員が揃わなかったのは残念だが・・・。

12月16日はその会報編集会議が藤沢宿交流館で行われ出席。17日は辻堂駅近くの現場で仕事。天気は安定した晴れが続き、この日も富士山がきれいだった。

そして今日23日は天皇誕生日。83歳になられた。生前退位のご希望を表明されて、その行方に関心が集まる。糸魚川市で大火があり、陛下も一般参賀でそのことをお気にかけておいでだった。象徴天皇として、常に国民に寄り添おうとされておられる。明け方まで降っていた強い雨も、朝にはあがり青空になった。昭和の時代から、不思議に天皇晴れと云うジンクスが続いている。

あさちゃんの鎌倉日記(179-997) 12月21日(水) 冬至

9月9日、アルバイトの仕事で由比ガ浜の現場に向かう。今日は重陽の節句。菊の節句とも云う。長寿をめでる日でもあるが、今や長生きしすぎる人も多く、心から祝ってくれる人は少ないのかもしれぬ。ディーラーに頼んでおいた車検が完了する。

9月11日、やはり仕事で小坪の現場に出向く。日曜日でも要請があればかけつけるのがおいらの仕事。なんて粋がってても仕方がない。ホントは休みたい。

11月7日はFM放送の日。鎌倉駅で史跡巡りのお客さんを案内しているガイド協会のTさんに会う。以前は交番の横で受付していたが、うるさくなって「きらら」(鎌倉市生涯学習センター)の前で集合するよう変更したそうだ。最近、あさちゃんはおさぼりで参加していない。彼女は新江の島水族館でもガイドをしておられる頑張り屋さんだ。

同じくガイドのM氏にもお会いする。ある旅行会社のツアーをお待ちしているそうだが、人数が減ってしまってとボヤイテおられた。あさちゃんのカミさんは、彼のフアンでもある。FMの方は、いつものようにYさんとマイクの前でおしゃべり。

11月24日、再び由比ガ浜の現場で仕事。でもこの日は大変だった。11月に季節外れの大雪(積もってるから鎌倉では大雪だろう)に見舞われた。なんでも関東地方では11月に積雪を記録したのは54年ぶりだと云う。未明から午後3時頃まで降り続いた。

帰りの江ノ電の車窓からとても珍しい現象を目撃した。七里ヶ浜沖の海面から、湯気がもうもうと立ち上がってる。まるで温泉のように。更に江の島が浮き上がってるのだ。上半分が見えないことは時々あるが、今日は下半分が見えないのである。呆然と見惚れるあさちゃんと乗客たち。これは海水の温度が外気よりも高い時に見られる珍しい現象。翌日の朝刊でニュースとして掲載されていた。但し、写真は横浜港。「蒸気霧」と云うそうだ。勉強になりました。

12月13日は小坪で仕事。お昼は小坪の海岸に面した公園で持参の弁当をひろげる。鎌倉歩け歩け協会の参加者たちが大勢昼食休憩をしていた。その中に混じっておにぎりをパクついていたが、出発時間になっても立ち上がろうとしないあさちゃんを見て、オバちゃん達が怪訝そうな顔をしていた。あの様子だと紛れ込んで一緒に歩いても、とがめられることはなかったかも・・・。

12月15日、再び由比ガ浜へ。この日はいい天気だった。そして今日、1年で太陽の高さが一番低く、昼が短く夜が長い「冬至」の日。お粥をいただいたり、カボチャを食べたりして健康を祈願する日だ。字は異なるが発音が同じの「東寺」。この京都の有名なお寺さんでは、境内で「終い弘法」の骨董市が開かれている筈だ。京都に住んでいた新婚時代に、二人で出かけた記憶がある。

息子の誕生日でもあり、札幌のホテルに泊まりこみで誕生日を祝ったりした。それも2年続けて・・・。窓の外はしんしんと雪が降り続くホワイトバースデイだったことを懐かしく思い出す。40年以上昔のことになってしまった札幌時代の話。

あさ坊のぶらりハマ歩き(86-996) 12月19日(月) 三渓園

12月7日、晩秋から初冬へと季節が移り変わる横浜の三渓園を訪ねる。EFGの研修で講師はH氏。クラブのベテランガイドであると同時に、氏はここ三渓園の専属ガイドも務めておられる。あさ坊は江の島の勉強でずいぶんとお世話になっているが、かねてから三渓園のお話もお聴きしたいと願っていた。

今日の参加者は15名。このブログでも以前に採り上げた経緯があり、詳しい話は省略したい。今日は何と言っても紅葉の美しさに圧倒された。高台にある三重塔は池に映えて存在感たっぷりであり、檜皮葺の古建築やせせらぎ、モミジや銀杏の紅葉や黄葉は青空の下で更に輝きを増す。白無垢の花嫁さんたちが、何組も園内で撮影に応じていて花を添えている。

今日19日は、藤沢で所用を済ませた後、関内に向かった。さすがに街路樹の銀杏はすっかり葉を落とし、たたずまいは冬そのものとなっている。樹々は淋しいが、代わりに街にはイルミネーションが冬化粧をしている。訪れたのは昼間であったが、黄昏時ともなると光あふれる街並みに変身するのだろう。

イルミネーションで思い出すのは、この時期に訪れたシンガポール。市内オーチャード通りには両側のビル全面を照らし、それが何キロも続く。南国ゆえにクリスマスを控えても真夏の暑さで、日本人には多少の違和感があったものの、強烈に記憶に残った光景であった。残念ながら、国内ではそこまでの規模の電飾にはまだお目にかかっていない。

2016年12月22日 (木)

asataroおでかけ日記(159-995) 12月17日(土) 表参道

9月17日、昨日の大相撲観戦の余韻に浸ってはいたが、浅草橋のホテルを早めに出立。王子に立ち寄り、赤羽経由で幼い孫たちを引き連れて自宅に戻る。翌18日には横浜の長男一家も来訪。孫4人が揃っての敬老の日記念祝賀パーティーが「盛大」に開かれた。

9月28日、今度はasataro爺さん夫婦の誕生日祝いを娘が表参道で催してくれた。表参道や青山を歩くのは何年ぶりだろうか?10月15日、王子で保育園の運動会が行われ、出かける。両親が仕事に追われているため、孫兄弟は幼い内から保育園のお世話になっている。祖父母としては不憫にも思うが、幼子たちは一段とたくましくなってきている。

たくましいとは云え、やはり幼い子は病気にもなりやすい。熱が出ると保育園を休まざるを得ず、その都度SOSがくる。交通機関が発達していて助かるのだが、それでも片道2時間は楽ではない。朝は通勤ラッシュの満員電車で駆けつけることになるが、それもだんだんきつくなってきた。10月は2回、SOS出動があった。それだけに元気であって欲しいと心から願うことになる。

12月6日、上野の国立博物館に出かけた。上野の森の紅葉が素晴らしかった。特に銀杏の黄葉は絵に描いたような美しさ。外国人も感嘆の声をあげて写真を撮りまくっている。滋賀県甲賀にあるお寺の平安仏が展示公開されている。asataroは同じ県内の草津市に住んでいたこともあるが、甲賀には行く機会がなかった。と云うより若い頃には仏像にさほどの関心も持たなかった。仕事に追われる毎日で、心に平安を求めるすべも知らなかった。

今日はEFGの仲間たち12名で出かけ、構内の法隆寺宝物館も併せて見学。以前は、国立博物館友の会にも加入していたが、定期券の使えない身分に落ちぶれてからは、とても通える距離ではなく自然退会となった。

同じように新宿での「興福寺友の会」も、毎年律儀にご案内いただくが2年近くご無沙汰している。貫主さまのお話や座禅も捨てがたいのだが、今のasataroには鎌倉で精一杯となっている。老いの辛さで、お江戸も遠くなりつつある。

あさ彦の爺(じじ)放談(58-994) 12月14日(水) 与党の姿

与党と云えば自民党である。過去に自民党が野に下ったことはあるが、自民党員は野党にいると云う「自覚」がなかった筈である。公明党はどうか?これは単に自民にくっついていたいだけ。かつては平和を愛する政党だったが、自民に引きずられて戦争に加担する恐れのある政党に変身してしまった。

与党入りを切望している維新は?この政党ほど不気味な存在はない。何を考えているのか、それとも長期ビジョンのない集団なのか?評価が定まらない。大阪都構想が挫折したと思ったら、今度は「夢よ、もう一度」で大阪万博の誘致をぶちあげた。あの時代とは全く異なる今の時期に、時代錯誤か、それとも優れた政策なのか?気持ちの悪い話である。

そうそう、カジノに最も熱心な政党でもあるらしい。真相は万博にしてもカジノにしても、大阪湾に埋め立てが進行している新しい土地の使い道が見当たらない為とか。それほど土地が余ってるなら、オスプレイの基地にすれば沖縄の負担軽減にもなると思うのだが。以前、橋本知事か、市長だったか、コロコロ肩書の変わる人だったから忘れてしまったが、普天間基地の代わりを大阪が引き受けても良いと手をあげたことがあった。今思えば、とても立派なお方だった。

もう一度話を自民党に戻す。戦後70年余、少なくとも対外戦争に加担せず、日本の平和をほとんど自分たちの党だけで守り抜いたことは確かだ。アメリカの傘の下とは云うけれど、戦争に負けてしまった以上文句は言えないし、逆に勝ったアメリカの方が日本を守るのに苦労している。

あさ彦は自民党のシンパでもなんでもない。しかし、実績は認めざるを得ない。それも前の首相までは・・・。55年体制と云われた自民・社会の時代が共に勝ち負けの心配もなく、平和共存していたのだろう。かつての自民には活力が漲っていた。左右両派の絶妙なバランスが、保守型社会主義と云われる、戦後の日本社会を築き上げた。

世界の潮流も変わってしまったとは云え、あれも古き良き時代だったのか。平和な江戸時代が外圧により崩されたように、戦後の平和ニッポンも外圧と内なる自壊作用によって崩れようとしている。昭和は遠くなりにけりである。

あさ鉄の車窓日記(44-993) 12月11日(日) 鉄道雑感

北陸新幹線の京都までの延伸ルートがほぼ決まった。報道によると小浜ルートのようで、琵琶湖の西岸つまり現在の湖西線に沿ったコースとなる。米原や舞鶴を経由するルートと比較してのことだが、初めから小浜ありきで進んだのではないか?常識的に考えても他の2ルートは無理があった。当て馬だったのだろう。京都から大阪までは未定だと云う。東海道新幹線に合流すると決めてはないようだ。過密ダイヤからなのか、理由は定かでない。

昭和39年の東海道新幹線開業に先立っても、国民世論は大きく分かれた。20世紀の万里の長城、つまり無用の長物だとする評論家も多かったが、今や新幹線は国民生活に欠かせないばかりか、世界の趨勢にまでなっている。将来の読みはまことに難しい。

路面電車もしかり。当時の世論は圧倒的に、廃止支持だった。中には自動車の交通障害になるとか、道路を電車が走ること自体がナンセンスだと。学生運動華やかなりしころで、なんでも「ナンセンス!」と叫べば通じる時代だった。しかし、今や路面電車は復活の兆しが見えている。車の公害にようやく世論が気付き始めた。

あさ鉄の学生時代、東京も京都も大阪も都電や市電が全盛だった。戦後復興の足となってきた。昭和30年代の後半から、一斉に姿を消し始めた。誰もその流れを食い止めようとはしなかった。今となっては後悔しきりである。しかしながら広島・長崎の両平和都市をはじめとしていくつかの地方都市で、辛くも生き残ってくれた街もある。

あさ鉄の暮らす町には「江ノ電」が走っている。路面走行は一部区間だけだが、この電車も廃止の瀬戸際に立っていたこともある。今や、観光のシンボルにもなっている愛すべき電車である。スピードを競う鉄道と、チンチン鳴らしながら走る電車、共に日本の風土には欠かせない存在と云える。

尤も路面電車は日本の専売特許でないことは申すまでもない。ヨーロッパでは今も街の景色に溶け込んでいる。サンフランシスコのケーブルカーも楽しい思い出だし、メルボルンの路面電車もノスタルジア溢れる乗り物だった。

室蘭にいた時は近くに機関区があって、蒸気機関車が昼夜を問わず出入りしていた。おかげで当時1歳児の長男はばい煙に苦しめられ、今もその後遺症?に苦しんでいる。高度成長期だったが、最後まで残っていた北海道のSLもやがて姿を消した。

因みにあさ鉄の好きな歌には鉄道ものが多い。中でも「あ~上野駅」は、聴くだけで今でも涙がにじんでくる。集団就職の経験はないが、貧窮のどん底でアルバイトと奨学金が命の綱だった貧乏学徒。下宿代が払えず、田町駅に近い格安の学生寮に4年間住み続けた。夜行急行の三等車で着いた品川駅が、今でも脳裏に浮かぶ。

あさ吉の思い出日記(46-992) 12月8日(木) ガイドの思い出

あさ吉の歳は来年の誕生日を迎えれば75歳。この歳になればいつ旅立ってもおかしくない。小中は云うに及ばず、高校の恩師もほとんどは鬼籍に入られた。新入社員当時の上司も大半の方々が亡くなられた。両親や叔父伯母も泉下に眠っておられる。

いよいよ、我が身も秒読み段階に入ってきたようだ。寂しいと云うよりまだ未練が残っている段階の、救われない哀れな身でもある。しかし、新しい命も次々に芽生えてくれている。こうしていのちの連鎖が未来に向かって続いてくれる。煩悩の塊で、まだ死にたくないと叫んでみても、時間は止まってはくれない。それどころか、歳と共に時間の経つのが早くなってきている。あ~、どうしょう・・・。

結論はなるようになれ。と云うわけで今日は少し昔の思い出を整理する。あさ吉の分身(あさちゃんとあさ爺の話)の身の上話だが、鎌倉でガイドを始めたのは2004年(平成16)の秋。今年で12年一回りした。最初の5年間は駅前での観光客への道案内が中心だった。

2009年に鎌倉検定合格を機に、それまで観光客から要望が多かった当日ガイドを開始。リピーターもどんどん増えてしまった。その間、鎌倉シルバーボランティアガイド協会(当時)に再三入会を試みたが、鎌倉在住でなかったことや高齢と云うこともあり厚い壁は崩せなかった。

会員にはなれなかったが、協会の主催する行事にはくさることなく積極的に参加。定例の史跡巡りには165回。その他、協会の有志やOBが主催する行事には約100回程度参加して、参加者の一員として教えを乞うた(盗み見た?)。

検定の最初の年に満点合格(8名)できたのもストレートで卒業?して栄えある第1期生(20名)としての栄に浴したのも、すべてはガイド協会の「指導」のおかげである。参加費だけで計約13万円の授業料を払い続けたが、今ではその財産で余生を送ることができている。

門前払いの辱め?を受けながらも、救いの神は現れて今ではお隣の町(あさ吉の住む町)のガイドとして歩き回っているわけだ。逗子・鎌倉・藤沢のそれぞれの観光協会の一員(職員→会員→専属ガイド)としても途切れることなくお世話になり、自身を磨き続けることにもなった。この歳になれば素直に感謝の日々である。その経歴を生かして、「湘南・鎌倉ガイド」と云う肩書を名乗らせていただいている。

現在のEFG(江の島・藤沢ガイドクラブ)には来年度から新たに後輩が加わる。この3年間は新人として余裕がなかったが、これからは再び鎌倉の史跡巡りにも復帰して学び直したいと考えている今日この頃なのです。

最後に、このブログも2010年夏にスタートして、今回で通算992回となりました。あさちゃんの影武者を含めて8人で跳ね回っています。そこで1000回の大台目指してカウントダウンを始めます。( )内の回数表示はそう云うわけでございます。ハイ

2016年12月16日 (金)

あさ爺の湘南・鎌倉ガイド(286) 12月4日(日) 湘南の宝石

11月22日の朝、福島県沖でマグニチュード7.4の地震が発生。福島県沿岸に津波警報が発令された。当地でも震度3を記録。久々に大きく揺れて3.11の悪夢が脳裏をよぎる。テレビ・ラジオは津波のニュース一色となり、こちらが知りたい交通情報は消し飛んでしまった。

今日は小田原でのガイドを予定していたのである。幸い、大きな交通障害もなく参加予定の40名余りのお客様はほぼ定刻に集まられた。先日下見をした小田原城外周の尾根道や下りてからの市街地を案内して廻る。

鎌倉や江の島と違って、頭の中の知識が身についていない。一夜漬けの付け焼刃であることが、ガイドしながらでも自分でわかる。大勢の参加者でガイドも数人いるので、所定の時間内にゴールさせることに気が取られてしまう。

下見の時にはパスした天守閣を、今日は上がってみる。改修してからは初めてである。展示の構成は大きく変わっていなかったと思うが、新しくなったせいか気持ち良く見学できる。小中学生の団体で混雑していた。

11月28日、この日は来月にガイドを予定している七里ヶ浜から江の島へのコースの実習。18名が参加してM氏が講師となって歩いた。今回のテーマは、いつもと視点を変えて異国文化の残照を訪ね歩くと云うもの。

12月4日、今度はカミさんを連れ出して七里ヶ浜を下見で歩いた。江の島や片瀬地区は、何度も歩いてわかっているので割愛し、午後から出かけて鎌倉にも足を伸ばした。

夕方からは江の島のイルミネーションを見物することにした。日曜日とあって、夕刻になっても江の島の参道は混雑し、午後5時に観客のカウントダウンで一斉にイルミネーションが点灯された。途端に夕闇が一気に真昼のような明るさに。シーキャンドル(展望灯台)からの夜景もいい。

今日は江ノ電の「アフタヌーンパス」を利用する。江ノ電のフリー切符に加えて、エスカー、コッキング苑入園料、シーキャンドル入場料含めて1,000円。お得感いっぱいである。因みにここ江の島のイルミネーションは「湘南の宝石」とも呼ばれている。看板に偽りはなさそうだ。

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