四国

2017年4月 3日 (月)

asataroおでかけ日記(162-1026) 3月17日(金) 義弟の法事

3月14日(火)、熱海から新幹線で四国へ。雨の中で、車窓からの富士山は見えずじまい。岡山駅で名物の祭り寿司を買い求める。3月15日(水)、甥夫婦が寝台車で高松に到着。甥の父親、asataroの義弟の十三回忌法要に参列するため。昼は讃岐うどんで、夜は義妹の家で親族揃っての会食。

3月16日(木)、更に義弟の妹夫婦も高知から駆けつける。義弟とは言ってもasataroより年長。好きな絵画三昧の余生を夢見ていたが、難病のため志半ばで逝った。享年66歳、今では早すぎる死と云ってよい。彼の遺作の静物画が我が家の玄関を飾る。

3月17日(金)、郷里の街を発つ前に、何年かぶりに栗林公園を巡る。ボランティアガイドのTさんの案内。仲間のあさ爺もこんな風に案内してるのかなと思いを巡らす。この公園は、asataro自慢の郷土の誇りだ。再び、瀬戸大橋を渡り、新幹線小田原経由で帰宅。

2016年7月31日 (日)

あさ鉄の車窓日記(42) 7月19日(火) 四国への旅

親戚の法事の為、四国へ出かける。出発したのは17日の日曜日。いつもなら新幹線の小田原駅へ向かうのだが、今回は(これからも?)カミさんの希望を汲んで新横浜駅へ向かった。

いずれにしても飛行機の選択肢は考えていない。あんな巨大な金属のかたまりが宙に浮くことなど、良識ある人間なら信ずることはない筈だ。羽田へ出るのが面倒なこともある。ましてや国内線の格安便が出ている成田なんて、外国へ行くわけじゃなしナンデそんな非常識なことができるものか・・・。と云う極めて健全な考えで、安心安全な日本が誇るシンカンセンを利用することに落ち着く。

ただ、あさ鉄には新幹線の駅は小田原駅が乗車駅だと思い込んでいた。カミさんは発想がユニークで、一度は新横浜駅から乗ってみたいとダダをこねた。考えただけで乗り換えも何度かあって面倒くさそうとしり込みしたが、これも我が住む町から地下鉄なら乗り換えなしの一本で行けると教えてくれて、それならと快諾?した次第。

もう一つの新しい発見があった。いつもなら新大阪かどこかで一度は乗り換えて岡山へ向かうのだが、これもシンヨコからだと乗り換えなしで岡山へたどり着ける「ひかり」があることが分かった。これは世紀の大発見である。ちなみに「のぞみ」に乗るという贅沢な発想はあさ鉄の嫌うところである。「ひかり」や「こだま」「さくら」がエコノミークラスなら、「のぞみ」や「みずほ」はビジネスクラスみたいなもの。高根の花と云うより無駄遣いである。ま、ジパングが使えないと云う単純な理由が先にあるのだが・・・。

ところで、新横浜駅がなぜにカミさんを魅了したか、駅ビルにいろんなお店があるからだ。小田原駅では名物のカマボコしか売っていない。シンヨコは目も眩むほどのお店が並ぶ。レストランの開店時間が遅いのは想定外だったけど、まあ、退屈はしなかった。あとは品川駅が残っている。いまだに新幹線品川駅には入ったことがないのだ。ポケモンGOでもさっさと入ってるだろうに、あさ鉄爺さんは時代に乗り遅れること甚だしい。

午後のひかりで岡山に向かい、いつ見ても絵のように美しい瀬戸内海を眺めながら、快速電車で高松に着いた。18日は法事で観音寺へ。そこから更に四国中央市へと向かう。19日は兄でありながら、たまにメールのやりとりしかしない普段は疎遠の兄弟が、所用で会った。故郷に戻って老夫婦で穏やかに暮らしている。

そうそう、兄は航空会社で定年をまっとうした。生涯に何度、飛行機を利用したのかは知らないが、地上勤務の彼でも少なくとも千回くらいは乗ったであろう。考えてみれば「恐ろしい」ことだが、一度も危ない経験はなかったと云うことだろう。

ま、彼のおかげで学生の分際でありながら、伊丹~羽田でバイカウントと云うプロペラ式の旅客機に乗せて貰ったのが初乗り体験。又、彼のコネ(面接時、勝手に兄の存在を暴露)もあって学生時代、アルバイトで羽田の某航空会社のランプ勤務を1年ばかりやったことがある。

当時は今のようなボーディングブリッジなんて洒落たものはなく、お客さんは改札口から搭乗口まで歩き、飛行機のタラップを歩いて昇って機内に入った。出発と到着の際のお客さんの誘導が主な仕事だった。そうそう、到着した時にタラップを駆け上がり外から飛行機のドアを開けるのも大切な仕事。開けたところで、真っ先に目に飛び込んでくるのが、ドアのところで待ち構えているスチュワーデスさんの満面の笑み。当時はホントに美人揃いだった。彼女たちも、まさか目の前にいる制服姿も凛々しい職員が、学生アルバイトとは思わなかったであろう。その彼女から連絡文書の入ったカバンを受け取って、お客様を出口まで誘導するのだが、今でも楽しかった仕事として記憶の底に残っている。

つまり、男同士の兄弟と云うものはお互いがそれぞれ世帯を持つと、何故だか行き来が少なくなる。冠婚葬祭の時だけだ。あさ鉄も兄の恩恵を受けて空を何度か飛びながら、勝手な雑言を吐いている。

そこへゆくと女同士は凄い。今日も、カミさんは妹と深夜まで話に花が咲いている。羨ましい限りだ。

2013年10月19日 (土)

あさ吉の思い出日記(42) 10月19日(土) デパートの撤退

あさ吉の故郷は、四国の高松です。お国は?と訊かれて、四国出身者は「四国の○○です」と言う答え方をすることが多いのが特徴です。香川の高松ですとか、愛媛の松山ですと言う答え方は少数派です。

広島や松江の出身者は「中国の広島です」「中国の松江です」とは余り言わないようです。広島には冠詞は不要でしょうし、松江の場合は「山陰の松江」と答える。島根の松江とはあまり言わないようです。

同じような例は「北陸の金沢」「東北の仙台」にも見られ、県名が頭に付くケースは県庁所在地の都市には少ない気がします。

ところであさ吉の故郷の話。今、あるデパートが撤退する話に街全体が大揺れに揺れています。北の繁華街にある老舗の三越デパートに対し、南のターミナルにある天満屋デパートは、商業都市のシンボル的存在でしたが、その天満屋が来春店を閉じる話に、地元には激震が走っています。

郊外型のショッピングモールが地方に進出し、どこの街も都心が急激に元気を失っているのです。地元私鉄の拠点ターミナルには3線が乗り入れていて、かっては活力の溢れた街でした。そこにまず「そごう」が進出したものの撤退します。その後に来たのが対岸の岡山を本拠とする天満屋だったのですが・・・。

あさ吉が通学で利用していた頃には、現在のターミナルはできていませんから、いずれにしてもその後の話。帰省する度に、街がスマートに近代化する一方で、肝心の賑わいが失われてゆくのがとても気になっていたのですが。

航空利用が一般化し、連絡船時代の「四国の玄関口」との形容詞は、すっかり昔話になりました。その時代に整えられた大通りに面するビル街や日本一とも言われる延々と続き四通八達するアーケード商店街、四国の拠点としての官公庁の出先機関の充実等々、過去の遺産で食いつないでいるような感じがします。

あさ吉の高校の同期生で地元に就職した者、家業を継いだ者は大勢いましたが、彼らも第一線を退きつつあります。市長となったM田をはじめ、実業界や地方政界で活躍した仲間との交流は以前にも増して絆を強めています。彼らに今度の話を聞いてみたいものだと思います。

実家はなくなりましたが、両親や祖先のお墓がこの街にある限り、これからもこの街を訪れることは続きます。

ふるさとは遠くにありて思うもの・・・とは言われるが、低迷する街の姿だけは見たくない。ガンバレ!我が故郷、我が街よ!

2011年10月31日 (月)

asataroおでかけ日記(32) 10月23日(日) 四国の最北端 庵治

庵治(あじ)は、高松市の北東部に突き出た半島です。向かい側の屋島は、源平の古戦場として知られています。有名な那須与一の扇の的の舞台となったところでもあります。その屋島に比べると知名度は高くありません。

しかし、石材の産地としては有名で、「庵治石」は高級な御影石として墓石や灯籠に用いられています。更に彫刻の材料として人気が高く、イサムノグチはこの町に住み込み製作に励みました。そのアトリエの跡は、現在「イサムノグチ庭園美術館」として、未完の作品もそのまま展示公開されています。

眼前に小豆島が大きく広がります。そしてこの庵治地区は、四国の最北端に位置しています。四国では外れにあたりますが、「世界の中心で愛をさけぶ」の映画のロケ地になりました。

この風光明媚な地にある「あじ温泉庵治観光ホテル海のやどり」で、会社のOB会が開かれましたので、asataroは昨年に続いて出席しました。1年ぶりの再会もあれば、約20年ぶりの再会もあります。この歳になると、お互いに何があってもおかしくはありません。今回も、総会に先立ってこの1年に亡くなった3名の冥福を祈る黙祷がありました。

当時の仲間たちと、男女を問わず話が盛り上がります。皆さん、元気だからこそ出席できるわけです。やはり、健康が最も大切なタカラモノのようです。とりわけ、同じ店で一緒に働いたFさん、Gさんの2人の女子社員との再会は、楽しい思い出になりました(*^-^)。

雲一つない快晴です。映画の中では「夢ヶ島」だった稲毛島、産廃問題で揺れた豊島(てしま)、鎧島、兜島と言う古戦場にふさわしい名前の島も点在しています。兜島は俳優の森繁久弥さんの個人所有の島ですが、今はどうなっているのでしょうか?穏やかな瀬戸内海が一段と美しく、青空に映えます。

灯台のある男木島(おぎじま)は「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地であり、小豆島は日本映画の傑作「二十四の瞳」の舞台となった島です。共に木下恵介監督がメガホンをとり、高峰秀子が渾身の演技を見せました。asataro、中学生の頃の話です。

この日の夜の寝台特急「サンライズ瀬戸」で帰途につきました。今回、利用したのは「シングルツイン」と呼ばれる2段ベッドの個室で、初めて体験する部屋でした。若いカミさんは2階に上げ、トイレが近いasataroは1階でおやすみします。

いつものように瀬戸大橋から漆黒の闇につつまれた海を眺めつつ、眠りにつきました・・・。

2011年10月26日 (水)

asataroおでかけ日記(28) 10月19日(水) 菊池寛記念館

今日は高校を卒業して50周年の記念同窓会が母校で開かれます。それに先立ち、高松市内にある「菊池寛記念館」を見学しました。asataro、まだ出かけたことがありません。同窓会を機に、まずは大先輩に敬意を表さなくてはとの思いです。府中市にある多磨霊園の墓地にはお参りしたことがありますし、なにより、中学、高校の通学路に生家跡がありました。遅ればせながらの、記念館訪問です。

菊池寛は作家としても名作を多く残していますが、文藝春秋社を興し、新人作家の登竜門ともなっている芥川賞と直木賞を創設した功績が光ります。鎌倉文士との交流も深く、特に芥川龍之介、直木三十五との親交が後の賞の設定につながります。自他共に認める文壇の大御所でした。同窓会の始まる前の時間を利用して、じっくりと見学します。

母校の門をくぐります。50年前の面影はどこにもありません。後輩の生徒達への記念品の贈呈式と記念写真の撮影が同窓会館ホールで行なわれました。もう、我々の年代になると、校長先生も同窓だそうですが、年次はずっと後輩になります。

団塊の世代の少し前に当たりますが、それでも1学年約550名が在籍し、巣立ってゆきました。そして、全国から駆けつけたOBは103名。46名の仲間が鬼籍に入りました。約1割近くが亡くなったと聞きショックは隠せませんが、もう、そのような年代ですから仕方がありません。

10年前には還暦祝いで集まりましたが、今度は古稀を前にしての再会。前回よりも多く集まりました。懇親会は老舗の料亭に場所を移しての開催です。ここのオーナーが我々「同期の桜」の会長をしてくれています。名門K大で卓球の選手として活躍、夫人つまり女将も卓球選手で全日本のチャンピオンにもなった方です。

50年ぶりに再会した仲間も多く、お互いに年輪を重ねた表情になっています。面影の残る人、まったくわからない人、老けている人、若々しい人、人生航路が様々ですから、それが今の姿になっているのでしょう。まさに、人生~イロイロ~♪です。

しかし、概して「女生徒」の方が元気いっぱいです。話の弾み方も違います。オトコは大体、カラダのどこが悪いとか、入院した経験談とか・・・、暗い話が多いようです・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。さすがに、仕事の話で盛り上がる歳でないことは確かです。

50年の時空を超えて、仲間たちの絆を感じた夜でした。物故者への黙祷で始まった集まりでしたが、故人となった友にも全員で合唱した校歌はきっと届いたことだろう・・・と思います。

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