外国・海外旅行

2017年7月20日 (木)

あさ爺の徒然日記(605) 7月20日(木) 世界一の建物は?

今日、手元に届いた雑誌の表紙に目を奪われた。世界一の超高層ビルである。ビルの名前は「バージュ・カリファ」と云い、ドバイにある高さ828mだそうだ。砂漠に咲くヒメノカリスが建物のモチーフとされているが、上空からでないと花の形は確認できないとか。

アラブ首長国連邦(UAE)のドバイは今なお進化を続ける未来都市だそうだ。あさ爺は足を踏み入れたことのない「未開」の地。歴史の舞台となった古い街を歩くのが性に合ってるあさ爺である。こんなハイテク都市には興味はないが、それにしても桁外れに高い。

あさ爺世代は何と言っても「エンパイアステートビル」であり、ニューヨークのマンハッタンである。幼い頃、西宮球場で開かれた「アメリカ博覧会」に連れられて行った。そこではアメリカの眩いばかりの巨大な展示で溢れていた。因みに生まれて初めてテレビなるものを見たのもその時で、迷子になってワンワン泣き叫んでいた苦い思い出も。

GHQによる占領政策のPRだったのだろう。迷子になったくらいだから、大混雑だった。70年前の話である。後年、そのエンパイアの最上展望階に入って、ニューヨークの街を見下ろした。そのビルの倍以上の高さのドバイのビル。因みに我が「東京スカイツリー」は高さ634mの電波塔(ビルにはあらず)。

2013年1月12日 (土)

あさちゃんの鎌倉日記(125) 1月7日(月) 世界を駆けるHさん

およそ1年9ヶ月ぶりでHさんと再会しました。前にお会いしたのは、彼女の壮行会でした。北欧クルーズの大型客船(イタリア船籍)にスタッフとして乗船するにあたり、仲間が集まって送別の会を催したのは、一昨年の4月20日のこと。

あれから音信も途絶え、風のウワサではインドネシアを放浪しているとか、台湾で暮らしているとか・・・。その間、地中海かエーゲ海でやはりイタリアの豪華客船が転覆し、船長が一足先に脱出してヒンシュクを買う事件もありました。

ニュースで彼女の名前は出ませんでしたから、とりあえずは安心したものです。そして年が明けて、突然のメールをいただきました。若くて国際派の彼女のことですから心配はしませんでしたが、まだ新婚気分が抜け切らない内にダンナさんを残して出国したものですから、外野席は余計な心配をしていました。

壮行会が終わった後、有風亭の青木さんが人力車で彼女を鎌倉駅まで送った際に同乗の栄に浴したSさんと、3人でお会いしました。場所は、大根料理のお店「福来鳥(ふくどり)」。あさちゃんもしばらくご無沙汰していたお店です。そして食後は「茶房有風亭」に場所を移して語らいます。

2年近くの彼女の遍歴には、我々老人2人とも恐れ入谷の鬼子母神です。半年におよぶクルーズを終えた後は、ヨーロッパ各地を回り、友人の住むバリ島へ行ったそうです。その後は台湾に語学留学していて、今度は上海に2年の予定で滞在するとか・・・。時々は帰国していたそうですが、とても忙しかったのでしょう。コンタクトはありませんでした。

英語・イタリア語に加えドイツ語も話せるらしく、船内ではロシア語、フランス語、その他諸々の言葉で、お客さまの相手をされた彼女。加えて今度は中国語!これからは中国語が必須と考えたそうで、そのあたりが黄昏時を迎えた我々とは根底から違います。語学の才能にも恵まれているのでしょう。 

我々男2人は残されたご主人のことがどうしても気になるのでした。結婚前に、海外を飛び回ることは、あらかじめ承知していただいてたとのこと。それにしても・・・。

凡人の尺度では測りきれない女性です。作家でもあり、フリーライターでもある彼女、今度再会できるのはいつのことやら。それまでお元気で!と言われましたが、思わず「生きてたらね・・・」と顔を見合わせて答えたオトコ2人です。

2012年7月 7日 (土)

あさ吉の思い出日記(19) 7月5日(木) 赤ちゃんパンダの誕生

上野動物園のパンダ「しんしん」が出産しました。小沢一郎離党事件をはじめ、世の中、暗い事件が続いていた中での、久々の明るいニュースです。

あさ吉がパンダを外国で見たのは、昭和59年(1984)2月21日、中国の広州市にある広州動物園でした。それも、一挙に大勢のパンダたちを。

広州は改革開放が始まる以前から、中国の中では先進的な商業都市でした。広東省の省都として、人口は600万人の大都市です。

あさ吉が訪れた当時は、まだまだ中国は発展途上国でしたし、社会主義政権下(残念ながら、今でもそうですが)ですから、自由に歩き回れないし、言いたいことも言えない雰囲気でした。市内を走っても、ガソリンスタンドを見かけた記憶がありませんし、自転車の大群に広い道路は占拠されています。

夜は暗く、田舎では子どもたちが珍しそうに集まってくる、そんな時代でした。最近の中国は知りませんが、隔世の感がある筈です。しかし、日本人の同行者が歓声をあげたのは、まちがいなく「パンダ」でした。

あの愛くるしい、白黒のぬいぐるみみたいなパンダは、文句なく人気の的になりました。現地の人たちは、特に珍しくもないと見え、人だかりがしておらず、ゆっくりと見物したことを覚えています。

広州には、中山記念堂等の名所もたくさんあるのですが、それほど記憶には残っていません。あさ吉も、パンダに心を奪われたミーハーの1人だったようです。

2012年7月 2日 (月)

あさ吉の思い出日記(17) 7月1日(日) 返還前の香港

平成9年(1997)7月1日、156年間の英国統治に幕を下ろし、香港が中国に返還されました。あれから15年が経ち、現地では記念行事が行なわれています。

あさ吉が最初に香港の土を踏んだのは、45年前の昭和42年(1967)1月18日でした。実はこの時が初めての海外渡航で、最初に外国を訪れたのがタイのバンコクでした。その後に香港と台湾に立ち寄っています。

当時の香港は、英国の植民地として繁栄を続けていました。日本ではまだ見られなかった高層ビルが建ち並び、二階建て電車や赤い二階建てバスが走り廻り、ロンドンの街の風景もかくありなんと思わせるものがありました。

アジアの一員としては複雑なものがありましたが、欧米の空気を感じることができると言うのも、間違いなく大きな魅力だったわけです。

香港は大きく分けて、英国風の香港島と中国人が雑居する九龍半島の二つの顔を持っています。共にそれが香港の多面的な魅力となって、多くの観光客を惹きつけました。特に、日本人には絶大な人気のデスティネーション(目的地)でした。

あさ吉はその後、度々香港に出かける機会がありました。又、中国の返還前には駆け込みで家族旅行もしましたが、返還後の香港には行きたいと言う気持ちが起こりません。日本人も激減してしまいました。

社会主義中国を見捨てて、自由社会の香港に流れ込んだ何百万の中国人には、複雑な中国返還だった筈です。しかし、今や中国各地にミニ香港のような街並みが出現する時代に、大きく変わってしまいました。

2011年10月 4日 (火)

あさ吉の思い出日記(3) 10月4日(火) ベトナムのバイク洪水

昨日と打って変わって、カラッとした秋らしい陽気になりました。鎌倉市雪ノ下1丁目6番地、ここ小町通りのいつもの場所で客待ちをされておられた人力車の青木さんを見つけました。3ヶ月近く、ゆっくりとお話する機会がありませんでしたが、今日は仏滅で婚礼のお仕事もなさそうです。

近くの「クレープコクリコ」と言うクレープのお店に、あさ吉は初めて入りました。外観は緑色でそれなりに目立つお店ですが、お客さんは大半が若い人たちです。あさ吉一人ならなかなか入れませんが、小町通りの顔役さんの後ろについて行きます。クレープをオーダーするようなお客ではありませんので、顔役さんはアイスコーヒー、あさ吉はアイスティです。

まだまだお若い青木さん(仮名ではありません。有名人ですから売名、イヤ実名です)、商売道具は路上に放置したまま、将来の夢を熱く語ります。まだ彼には十分、可能性ある未来があるようです。当面、10年間の近未来について、情熱をもって語ってくれました。

それに引き換え、あさ吉には残された時間はほとんどありません。最近、お寺巡りに力を入れているのも、お世話になる時の根回しみたいなものです・・・。そこで、将来ではなく、過去の思い出にふけります。

平成16年(2004)10月4日の朝はベトナムのハノイで目覚めました。前日は世界自然遺産のハロン湾を遊覧船「ジャンク」号でクルージング。中国の桂林のあの風景が、海の中にあります。船内で海鮮料理をいただきます。

そしてこの日は、ハノイ市内を廻ります。ベトナム戦争が終結するまで、対仏、対米とベトナム人民は戦い続けました。戦争中、果たしてこの戦いは終わる日が来るのだろうかと、誰しもが心配していた筈です。英雄ホーチミンの眠るホーチミン廟は、今や観光名所になっています。アメリカ人観光客も大勢見物しています。隔世の感があります。

ハノイ、そしてこの日の夕刻に移動したホーチミン(旧サイゴン)、このベトナムの2大都市で肝をつぶし、冷や汗をかいたのがバイクの洪水です。しかも、1台のバイクに家族全員が乗ってるなんて、珍しくも何でもありません。まるで、サーカスの曲芸です。信号機のある横断歩道なんてほとんどありません。道を渡るあさ吉たちが、今度はサーカスそこのけの身のこなしを求められます。まさに命がけ・・・、三途の川を渡る方が、よほど安心安全だと思います。

ひと昔前の中国では自転車の洪水でしたが、恐怖感ではバイクが数段勝ります。美しいベトナムの風景、アオザイの女性、メコンの流れ・・・、いずれも思い出には残っていますが、これらもバイクの思い出にはかないません。

10月4日にまつわるあさ吉の昔話でございます。

2011年10月 3日 (月)

あさ吉の思い出日記(2) 10月3日(月) 暁天のハバロフスク

涼しさを通り越して、もう冬空の様相です。このどんよりした空を見上げると、北海道や岩手で暮らした7年間を思い出します。今日は、ロシアのハバロフスクの思い出話・・・。

平成15年(2003)のことですから、大昔の話ではありません。この年の今日、つまり10月3日に生まれて初めてロシアの地を踏みました。現役時代に訪れる機会がなく、憧れのエルミタージュはいまだにアコガレのままです。

8年前に新潟からのダリアビア航空310便で到着したのは、極東ロシアのハバロフスク。海外旅行では、目的地が近づくと軽い興奮を覚え、窓に吸い寄せられます。この時眺めたのは荒涼たる大地の中に大蛇のように流れるアムール川でした。

翌日、午前の市内観光を終えて、午後からこのアムール川の遊覧船に乗りました。ライン下りやメコン川とはまた雰囲気の違ったロシアの川下りです。3日目はシベリア鉄道で更に内陸を訪ねます。

4日目の早朝、あさ吉夫婦は早起きをして明け方の街を歩きました。海外旅行に限らず、旅先で早朝散歩をするのが習慣になっています。そして、この時のハバロフスクの空の色が忘れられない思い出となりました。

群青色、瑠璃色、コバルトブルー、サルビアブルー・・・、言葉では形容し難い濃紺の青色でした。日本では見られない色、大陸でしか見られない空の色でしょう。初期の総天然色映画でこのような空の色が出て来て、あさ吉は子ども心にこれはウソだろうと思ったものですが、あながちそうでもなかったと言うことでしょうか。

最終日にはシベリア抑留者の日本人墓地で花とお線香を手向けます。酷寒の地で、望郷の思いを抱きながら命を落とした無数の日本人・・・。終戦前後の当時のソ連の行動を、日本人は決して忘れてはならないと。ハバロフスクで会ったロシアの人たちはとても親切だっただけに、余計に戦争の悲劇、理不尽さを思わずにはおれません。あさ吉は小学生の頃にラジオから流れた「異国の丘」のメロディが、異国の地に散った人々の無念を伝える鎮魂歌として、忘れることができません。

暁天の空の色は強烈な印象でしたが、ハバロフスクはアジア極東の地にありながら、雰囲気は欧州そのものです。日本からわずか2時間で行けるヨーロッパと言った感じも印象的でした。

あさ吉の10月3日にまつわる思い出話です。

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