思い出

2017年6月11日 (日)

あさ爺の徒然日記(574) 5月25日(木) 新婚時代の旧居跡

折角の有馬のいで湯も、風邪気味で朝風呂は断念。後ろ髪を(そんな長い髪の毛は見当たらない)引かれる思いで、宿を発つ。

神戸電鉄有馬温泉駅から一駅の有馬口で乗り換えて、新開地へ向かう。この路線も初体験だ。大都市神戸の山の裏側で、緑あふれるローカル鉄道の趣き。新開地で阪急神戸線に乗り換え、更に十三(じゅうそう)で今度は京都線に乗り換える。関西に住んでいた頃は、一番お世話になった私鉄だ。

好天なら六甲山で展望を楽しむことも考えたが、あいにく小雨ぱらつく空模様。予定を変更して、昔住んでいた界隈を訪ねるノスタルジアウオークに。新婚時代だからざっと45,6年前のことだ。

当時は向日町(むこうまち)だったが、市制を敷いて向日市に。下車駅も西向日駅と名前が変わった。ホームも長く広く地下道も出来て立派にはなったが、駅の周辺は余り変わっていない。昔の記憶を頼りに鶏冠井(かいで)沢の西の住居表示を見つけ、ほぼ該当の建物を発見した。もう以前の建物ではなかったが、カミさんがお隣のYさんのお名前を記憶していて、その表札と番地が決め手となった。

近くには旧長岡京の遺跡もある。今回の西国巡礼の締めくくりにいい想い出ができた。京都から新幹線で、夕方無事帰宅。南無観世音菩薩。

2016年6月21日 (火)

あさ吉の思い出日記(45) 6月20日(月) 迷子の思い出

最近になってあの事件が起こってから、幼い頃に経験した迷子事件のことをよく思い出す。

小学校にあがる前だったから、昭和23年(1948)頃で5,6歳の時の話。隣村を一人で冒険していてふと我に返り、帰り道が分からないことに気付いて、火が付いたように泣き叫び始めた。道行くお姉さんが怪訝そうに見ながら通り過ぎて行ったことも覚えている。しかし、その後の記憶がなく帰宅してから、「僕泣いちゃった・・・」と家族や他の大人に話し、「そりゃあ無理ないわねえ」と慰められたことが記憶として残っている。

だが、どうやって家まで辿り着いたのかが不思議だった。母親が亡くなる前に入院の付き添いをしていた時、こちらが聞いたわけでもなかったがその昔話を語ってくれた。オフクロもその時のことを覚えていたようだ。見知らぬ親切なオジサンが自転車に乗せて自宅まで送り届けてくれたと云う。その記憶が全くない。よく自分の住んでる所の説明が出来たものだと我ながら感心する。幼い時にパニックになった思い出である。

大和くんが自衛隊の演習場の無人ハウスの中で発見されたニュースを聞いて、自分とのエライ違いに驚嘆してしまった。彼が泣きながら父親の車を追いかけたつもりが、方向感覚を見失って反対方向の山の方に向かったらしいこと、山林には入らずひたすら道を歩き続けたようだ。それも5時間くらい・・・。

そして暗い中で小屋を見つけたこと、鍵のかかっていない扉を見つけて中に入り、床にマットレスを見つけて自分で引きずり下して二枚重ねたこと、外に水道を見つけて飢えをしのいだこと、親が探していると思い小屋からは離れなかったこと、捜索隊ではない演習予定の別の自衛隊員が偶然発見したこと、それも雨になったため入る予定ではなかったハウスに入ったことなど・・・。

発見の経緯は偶然が重なったわけだが、ここまで偶然が重なるとこれはもう神様かほとけさまが導いたとしか思えない気がする。あさ吉の当時と比較して、いかに怖い思いをしたか。あさ吉は今でもはっきり覚えているが、青空の広がるいい天気だった。

大和くんは漆黒の闇の中で小屋に到達したと見られている。そして6日間を孤独の中で過ごしていた。途中で何度か泣いたに違いない。

あさ吉は大陸からの引揚者で貧乏のどん底にあった。両親は働いていて鍵っ子だった。出かけたときは多分家人や近くの大人は知らなかったのだろう。当時の村にはまだ幼稚園がなかったし、モチロン今のように保育園があるわけでもなかった。この放浪癖だけは今でもカラダにしっかりと染みついている。

と云うわけで、しつけで置き去りにされたわけではなかったが、この子の強運がきっと世の中に役立つことがあるような気がしてならない。

2014年8月 2日 (土)

asatoroおでかけ日記(136) 7月5日(土) 同窓会に1077名出席!

恒例となっている高校の同窓会が、今年も高輪のホテルで行なわれ出かけてきました。小雨が降っていることもあり、初めてホテルの送迎バスにお世話になります。JR品川駅前から系列のホテルに立ち寄りながら走るのですが、我々と同じ仲間らしい人達で、マイクロバスは満席でした。

asataroの実兄も出席。彼はわざわざ大阪から駆けつけています。しかも、毎年です。航空会社のOBですから、いつも飛行機を使っています。羨ましい話ですが、新幹線派のasataroはもう何年も空の旅には縁がなくなりました。

大阪から来る理由は、大阪での幹事をやっていることもあるようですが、やはり在京のメンバーと会いたいのでしょう。33年(昭和33年卒の意)は同期会の結束が強く、ナントいまだに会報を発行しているそうで、活字世代の栄光が残っているようです。兄も熱心な活動家?かもしれません。

兄弟姉妹は冠婚葬祭の時しか会う機会もなくなりましたが、そう云うことで兄とは7月の同窓会でもお互いの生存を確認できています。しかし、だんだんと歳をとって今年は後期高齢者の仲間入り。バイキングスタイルの料理を弟が兄のテーブルにも運ぶというボランティアをここ数年続けています。ですから、33年のテーブルでは「孝行弟」として人気があるasataroです。昨年の会報には会場での兄弟の写真が掲載されたほどです。

asataroは36年組。そして今年の同窓会を準備したのは平成2年卒業の後輩たちでした。その幹事団の中に珍しい名前の人達が数人見られ、案の定、36年の我々仲間の息子さんたちでした。直接の縁はない筈の超後輩たちですが、最近は誰それの息子さんであったり娘さんであったりして、それで初対面であっても話が弾むこともあり、歴史ある学校(四国の田舎ですが・・・)の同窓会のアリガタイところでしょうか?

今年の出席者は、1077名。ここ数年、連続して千名を超える大同窓会となっています。ですから、毎年の幹事団もこの伝統を断ち切ってはいけないと、各学年の幹事に動員がかかるようで、少しやり過ぎの感も・・・。

最後は旧制中学校、女学校、そして新制高校の3校の校歌が歌われます。モチロン、大半の出席者は新制高校のOBですから、会場割れんばかりの大合唱になるのは恒例の風景にもなっています。

出席して旧交を温めようとしている人たちは、間違いなく心身共に健全な証拠でしょう。母校に怨念を持つこともなく、いやな奴と敬遠する仲間もいない、そしてこの会合で漸く言葉を交わすことができた昔の少女もいるわけで、同窓会万々歳です。

2013年4月12日 (金)

あさ吉の思い出日記(38) 4月10日(水) 瀬戸大橋25周年

昭和63年(1988)の今日、本州四国連絡橋のトップを切って岡山県倉敷市児島と香川県坂出市との間に、瀬戸大橋(9.4km)が開通しました。道路と鉄道の2階構造の併用橋としては、現在でも世界最長を誇っています。

北海道や九州と異なり、四国は地形上、本州に半ば取り囲まれているような感じですから、どこに橋を架けるかが問題でした。そして、四国側の徳島県には対岸の兵庫県、香川県には岡山県、愛媛県には広島県がそれぞれタッグを組んで激烈な誘致合戦を繰り広げます。

当然、政治家にとっては甘い蜜が吸える美味しい世紀の大事業です。当時は(今も?)自民党土建型政治の全盛期(昭和40~50年代)でしたから、先生方もタイヘンだったと思います。

兵庫県の明石から淡路島を通って徳島県の鳴門に至る、明石鳴門ルートが先行して最有力視されていました。時の建設大臣河野一郎(河野太郎の祖父)もこの案を支持。ツルの一声で決まるやに見えましたが、そうはさせじと反河野派が結束。河野派は少数派でしたから、結局巻き返しを許してしまい、最大実力者の田中角栄が盟友大平正芳の地盤である香川県ルートを支持し、大勢が決まります。徳島県に政敵となる三木武夫がいたことも、明石鳴門には不運でした。

開通時には大平は既に他界していましたが、政争とは別に鉄道併用橋案で進める瀬戸大橋を支持する声は、当初から高いものがあったのは事実です。昭和30年に起きた紫雲丸沈没事件は香川県沖で発生しました。この事件から、架橋は四国全体の悲願でもあったのです。

開通式でテープカットに加わったのが、運輸大臣石原慎太郎。当時は人気政治家(現在は、ん?)でした。皮肉にも、11ヶ所の亀裂が発見されたとのニュースが同じ日の紙面に出ました。当時の運輸大臣に限らず、みんな歳をとってきたと言うことでしょうか?

2013年3月16日 (土)

あさ吉の思い出日記(36) 3月14日(木) 大阪万博

あさ吉27歳の春。昭和45年(1970)3月14日と言う日は、大袈裟に言えば日本国民の誰もが特別な想いを持って迎えた日でした。日本万国博覧会、いわゆる大阪万博が開幕した日です。春は名のみの寒い一日でしたが、大阪の千里丘陵に出現した未来都市に、大勢の人たちが押しかけました。

あさ吉は当時岡山にいました。仕事で何度も訪れることになりましたが、まだ山陽新幹線は開通していませんでした。日本全体が高度成長期で2桁右肩上がりまっしぐらの中にあった時代です。

もうあのような好景気の世の中は来ないでしょう。アベノミクスでいくら頑張っても、2%の物価上昇ですから・・・。今、跡地は万博記念公園になり太陽の塔がモニュメントとして、繁栄の証を今に伝えています。

その後、愛知万博・つくば科学万博・沖縄海洋博がありましたが、結局大阪を超える博覧会はなかったようです。熱気が違っていましたから・・・。

あさ吉も若さ一杯の青年でしたから、会場の中を隈なく歩いたものです。ただ、パビリオンだけは人気館に余り入れませんでした。?時間待ちの長蛇の行列に恐れをなしたものです。

上海万博には行きませんでしたが、その時の中国の熱気が当時の日本に似ているようです。寅さんの映画が始まった年でもあります。まだ、地方や葛飾の下町の風景は映画の中そのもので、それだけに万博の華やかさが際立っていたわけです。

日本が今のように低迷するとは想像もできなかった、シアワセな時代の話です。

2013年2月13日 (水)

あさ吉の思い出日記(35) 2月4日(月) 市川団十郎逝く

今朝、歌舞伎フアンに再び衝撃的なニュースが飛び込んできました。12代目市川団十郎の訃報です。中村勘三郎亡き後の大看板が亡くなるとは・・・。勘三郎さんは50代、そして団十郎さんは60代。共に円熟期にさしかかったお二人です。

病魔と闘ってこられたことも共通していますが、運命と諦めるには甚だ理不尽なことです。天は何故このお二人を召されたのか?歌舞伎フアンならずとも、多くの人に親しまれた大スターでした。

2010年10月28日、あさ吉は京都知恩院の御影堂で、団十郎さんの熱演を鑑賞させていただきました。演目は「黒谷(くろだに)」と言う、団十郎さん自身が書き下ろした新作です。それも法然上人800年大遠忌記念「総本山知恩院奉納歌舞伎」の為に、渾身の思いで創作し、熱演したものです。

主人公は黒谷の法然上人のもとで仏道修行している身で、歌舞伎の人気定番「一谷」の熊谷直実(出家して蓮生)と討たれた平家の公達敦盛(亡霊)の後日談でした。市川団十郎気迫の演技を、間近に拝見することができました。

共演は中村壱太郎、中村錦之助でした。その夜は人間国宝坂田藤十郎による白拍子のあでやかな舞の披露もありました。

まったく脈絡のない話になりますが、相次ぐ名優の若過ぎる死に、あさ吉は明治10年の維新三傑の相次ぐ死が重なって見えました。西郷・大久保・木戸が申し合わせたように相次いで亡くなり、明治政府は維新後最大の危機を迎えました。新歌舞伎座の杮落しを目前に控え、重大な危機に直面した歌舞伎界。

内容は異なりますが、明治時代には維新で活躍した若き志士達が、その後の日本を背負ってゆきました。同じように、神は次代の若き俳優たちに明日の歌舞伎界を背負って行けと、チャンスを与えたのかもしれません。

2013年2月 3日 (日)

あさ吉の思い出日記(34) 1月28日(月) 遺品の整理

四国にある実家は、空家になって10年以上の歳月が経過。あさ吉も70歳となり、このまま放置しておくわけにもゆかず思い切って処分することとした。人の住まなくなった建物の傷みは早い。築45年の建物を解体し、土地を売却することにしたのである。

人生70年は立派な?節目。今までも20歳で成人式(これは全国的に・・・)、30歳で父親になり、40・50とその都度階段を昇り、60歳でサラリーマン生活を卒業した。70歳の今は、老い支度に気ばかりが焦る。定年後に始めたボランティア活動も縮小して身辺整理を始めているが、これは遅々として進まない。

断捨離(だんしゃり)が目標だが、凡人としてはモノに対する執着から抜け切れないでいる。しかし、今回は共同で相続していた土地・建物を処分することを実行できたのである。これは或る意味、愛着が薄いことから出来たことでもある。子どもたちは、帰省はしてもここで育ったわけではなかったから・・・。

両親が大陸から無一文で引き揚げて、漸く手に入れたマイホームであった。もう既に多くの物は整理・処分してきたが、今回、解体直前の最終チェックでボロ家と化した建物の中を改めた。父や母にとっては思い入れのあるタカラ物でも、こどもたちには猫に小判。ただ、アルバムだけは念のために回収して、中身を改めてみる。

父の職場やOB会の写真は思い切って処分し、親戚一族の写った写真だけは保存する。その中に両親の結婚式の写真が出てきた。セピア色で、あさ吉も初めて見る写真だった。数少ないおタカラである。

明日、両親のお墓参りをして報告するつもりでいる。

2012年12月30日 (日)

あさ吉の思い出日記(32) 12月21日(金)  40年前のこと

40年前の今日、大阪のホテルに待ちに待った1本の電話が入りました。四国の義妹から(・・・だったと記憶しているが)の電話で、無事長男が誕生したとの知らせ。母子共にお元気です、との内容。その頃は、まだ出生前の男女はわからない時代。

ちょうどその日は、あさ吉が大阪から北海道(室蘭)への転勤が決まり、送別会の直前だったかと思う。我が子との対面は、3ヶ月後に千歳空港で実現したが、5年後には同じ日に札幌から東京への送別会が行なわれた。息子、5歳の誕生日だった。

その息子は、今日40代に突入。不惑の年齢に入ったわけであるが、2人の子ども(つまり、あさ吉夫婦の孫たち)にも恵まれ、出版社で夜遅くまで働いている。

12月21日と言う日は、弘法大師が入滅された日でもあり、納めの大師とも終い弘法とも呼ばれている。つまり、我が息子殿は、お大師さんの生まれ変わりの筈かなと思うが、本人にサラサラその自覚はないし、親もモチロン思っていない。共通点は、同じ讃岐の生まれと言うことか?

京都・東寺の終い弘法は、初冬の風物詩でもあるようだ。広い境内を露店がぎっしりと埋める。その殆どは骨董商で、大勢の参拝客が掘り出し物を探しに詰めかける。

京都に住んでいた新婚時代の一度しか覗いていないが、それも今は懐かしいあさ吉の思い出となっている。

2012年9月27日 (木)

あさ吉の思い出日記(30) 9月25日(火) それぞれの記憶の原点

人生には原点となる、様々な記憶の始まりがあります。あさ吉も記憶の糸をたぐってみますと・・・。

総理大臣は吉田茂でした。但し、第何次の内閣だったかは知りません。NHKのラジオドラマは「鐘の鳴る丘」。テーマソングが耳に懐かしく残っています。ラジオからは進駐軍の英語放送が、四六時中流れていました。当然、何を喋ってるか理解できる筈もありません。

事件では金閣寺放火事件(1950)、桜木町事件(1951)を覚えています。四国の幼い子供が横浜の地名をいち早く知った電車火災事件(死者107人)でした。

国際ニュースでは朝鮮戦争とサンフランシスコ対日講和会議。災害ではジェーン台風(死者336人)。マッカーサー元帥が解任されたニュースも覚えています。1951年(昭和26)のことでしたが、この年前後から記憶は鮮明になってきます。小学校2,3年生の頃でした。

その頃からプロ野球は巨人と南海(現在のソフトバンク)が常勝チームでした。相撲は4横綱時代が続いていました。照国、羽黒山、東富士、千代ノ山で、双葉山は既に時津風親方でした。

生まれたのは日本統治下の朝鮮・京城(けいじょう)。現在のソウルですが、今や旧名の京城はパソコンでも文字は出てきません。内地に引き揚げるまで3年間を半島で過ごしていますが、殆ど記憶にありません。死線をさまよった引揚の苦難は、幸か不幸かまったく覚えていないのです。

生まれた時ではなく、記憶に残る時点から数えても60年以上の歳月が流れたことに驚きます。実は、今日があさ吉の70歳の誕生日にあたります。数え年だけでなく、満年齢でも名実共に「古来稀なる歳」になってしまいました。不思議に、いつお迎えが来ても仕方ないかなと、思えるようになりました。

でも、その時になるとみっともなく慌てるかもしれません。古寺巡礼を重ね、仏像に手を合わせていても、だからと言って、それで悟りをひらいてるわけではありませんから・・・。

2012年8月19日 (日)

あさ吉の思い出日記(28) 8月13日(月) 阿波踊りとさんさ踊り

旧盆の迎え火の日です。古来、日本各地の盆踊りは、この日前後に集中して行なわれていた筈です。しかし、時代が変わり、若者たちは村を離れ、盆踊りも観光客を呼び寄せる為にショー化してゆきます。

日時が集中しないように分散化が図られてきました。中でも東北と四国では1~2日程度ずらすことで、効率良く各地のお祭りを見て回れるようになりました。この世に一時帰国したご先祖さんたちで、踊りに参加されたい人たちは、戸惑っているかもしれません。

あさ吉が懐かしく思い出すのは、徳島の阿波踊りと盛岡のさんさ踊りです。南と北と地域は異なりますが、圧倒的なエネルギッシュさは共通しています。身振り手振りの阿波踊りに対して、さんさ踊りは全員が小太鼓を打ち鳴らすわけですから圧巻でした。モチロン、観光客や一般市民は手ぶらでも輪の中に飛び込めます。踊らにゃそんそんと共に参加型でもありますが、見物人が多いので下手な素人は勇気がいります。

阿波踊りや土佐のよさこい踊りは、今や全国的です。札幌のよさこいソーラン祭りは、北の都の初夏の風物詩にさえなりました。高円寺の阿波踊りは、本場顔負けの賑わいでテレビの生中継も入ります。お祭り騒ぎが好きなのは、日本人がご先祖から受け継いできたDNAでしょう。

ご先祖さんも迷わずに輪の中に入ったようです(*^-^)。

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