思い出

2017年9月 2日 (土)

あさ爺の徒然日記(647) 9月2日(土) 裕次郎記念館閉館

小樽の石原裕次郎記念館が26年の歴史に幕を閉じた。映画スターの記念館は珍しい存在だった。時代が変わると、往年の名優も知名度が下がってしまう。追っかけフアンも高齢化してしまうか、この世を去ってしまう。一代のスーパースター裕次郎も例外ではなく、入館者が減ってしまったらしい。

ミーハーのあさ爺は、特に裕次郎シンパではなかったが、1999年(平成11)7月3日の鶴見総持寺での裕次郎13回忌法要には参列した。長蛇の行列で4時間くらい待って漸く焼香した。

何のことはない、ほとんどの参列者は記念のワインがお目当てだったが、最初の2千本で在庫が底を尽き、残り4千人には当たらなかった。モチロン、あさ爺にも。炎天下で、帰宅後血尿が出て仰天した。ご苦労なことだった。

9年後、カミさんと娘の3人で小樽の記念館を見学。2008年(平成20)8月のことだが、もう混雑はしていなかった。総持寺の墓地にも2度ばかり参拝。逗子の旧宅跡地を数回ガイドした経験も。やはり、稀代のスターだったわけだ。

2017年8月27日 (日)

あさ爺の徒然日記(638) 8月24日(木) 地蔵盆の思い出

今日は京都の地蔵ぼん。この風習は各地にあると思われるが、かつて住んだ京都での地蔵ぼんが懐かしい。町内にあるお地蔵様に着飾った子どもたちが集まって、お供えをしたりお遊びをして楽しく過ごすのである。

転勤で各地を渡り歩いたが、京都のように各地域で盛んに行われているのをあまり見た記憶がない。スマホゲーム全盛で、しかも夜の子どもの外出が物騒な時代になってきたが、今でもこの古き良きニッポンの風習は続いているだろうか?

「新日本風土記」と云う長寿番組がある。今ハヤリの旅番組ではなく、その地に根付いている様々な行事や風習を映像に捉えている番組だ。モチロン、それを見て旅心をそそられることもある。戦前、或いは昭和30年代まではそうした伝統行事が各地に当たり前のように存在していた。

しかしながら、高度成長期からバブルへと移り、やがてそれがはじけて急速に進んだ過疎化、少子高齢化でニホンは様変わりしてしまった。それを掘り起こしたり、昔の映像を見せてくれるのがこの番組の持ち味で、対象は広く各地に及んでいる。

大規模で有名なお祭りもいいが、こうした地域の小さな風習もナントか後世につないでいって貰いたいものだ。

2017年8月 9日 (水)

あさ爺の徒然日記(621) 8月7日(月) 真夏に雪が降った?

先月17日には藤沢でヒョウが降った。それは雷と共にやってきた真夏の異変。しかし、あさ爺は40年前の今日8月7日、札幌の街に「大量の雪」が降ったことを記憶しているのだ。

しかし、それは残業で眼が疲れていたことによる慌て者の勘違いだった。まるで、「雪の降る街を」の歌の情景そのままに時計台通りのオフィス街に、しんしんと降り積もっていたのは火山灰だった。一瞬にして我に返ったあさ爺青年?は、それが有珠山の大噴火によるものではと察知した。

実は1週間位前から、有珠山周辺で火山性地震が頻発しているとのニュースが流れていた。距離は離れているが、桜島の大正噴火や磐梯山の例もあるし、江戸に火山灰を降らせた富士山の宝永噴火のこともある。果たして、カーラジオは道央に大量の火山灰が降っていると伝えていた。

洞爺湖温泉街はポンペイのように壊滅したのではないかと恐れた。知己となっていた多くの温泉旅館のご主人や女将さんの、助けを求める顔が脳裏に浮かんだ。結果は幸いにして人的被害は免れたが、夏の稼ぎ時の洞爺湖温泉は1年ほどの休業を余儀なくされたのであった。

2017年8月 8日 (火)

あさ爺の徒然日記(617) 8月3日(木) 東北の夏祭り

昨日の青森ねぶた祭に続いて、今日は秋田の竿灯まつり、6日は仙台の七夕まつりと東北の熱い夏が始まった。相前後して盛岡のさんさ踊り、弘前のねぷた祭り、山形の花笠まつりを加えて、東北は北から南まで祭り一色となる。あさ爺は残念ながら、花笠まつりを見る機会は持てなかったが、それぞれに特色があって興味深い。

個人的に好きだったのは、家族と暮らした盛岡での思い出。その家族の方は生まれたばかりの幼子もいて、祭り見物どころではなかったかもしれないし、あさ爺も八幡平のホテルに勤務していて、夏場の繁忙期でなかなか見物するチャンスはなかった。

その中で、1度だけ職場の仲間と街に繰り出し、太鼓のリズムを楽しんだ。若い男女の仲間が飛び入りで踊りに加わり、それが結構、絵になってウマいなあと感心した。だから今でもよく覚えている。引っ込み思案のあさ爺には勇気がなかったが、短い夏を精一杯謳歌する北国の人たちのエネルギッシュな激しい踊りと、太鼓のリズムがいつまでも耳に残っている。

詩情豊かな岩手路、市内を流れる北上川や中津川の水面、城下町盛岡の美しい思い出だ。

2017年6月11日 (日)

あさ爺の徒然日記(574) 5月25日(木) 新婚時代の旧居跡

折角の有馬のいで湯も、風邪気味で朝風呂は断念。後ろ髪を(そんな長い髪の毛は見当たらない)引かれる思いで、宿を発つ。

神戸電鉄有馬温泉駅から一駅の有馬口で乗り換えて、新開地へ向かう。この路線も初体験だ。大都市神戸の山の裏側で、緑あふれるローカル鉄道の趣き。新開地で阪急神戸線に乗り換え、更に十三(じゅうそう)で今度は京都線に乗り換える。関西に住んでいた頃は、一番お世話になった私鉄だ。

好天なら六甲山で展望を楽しむことも考えたが、あいにく小雨ぱらつく空模様。予定を変更して、昔住んでいた界隈を訪ねるノスタルジアウオークに。新婚時代だからざっと45,6年前のことだ。

当時は向日町(むこうまち)だったが、市制を敷いて向日市に。下車駅も西向日駅と名前が変わった。ホームも長く広く地下道も出来て立派にはなったが、駅の周辺は余り変わっていない。昔の記憶を頼りに鶏冠井(かいで)沢の西の住居表示を見つけ、ほぼ該当の建物を発見した。もう以前の建物ではなかったが、カミさんがお隣のYさんのお名前を記憶していて、その表札と番地が決め手となった。

近くには旧長岡京の遺跡もある。今回の西国巡礼の締めくくりにいい想い出ができた。京都から新幹線で、夕方無事帰宅。南無観世音菩薩。

2016年6月21日 (火)

あさ吉の思い出日記(45) 6月20日(月) 迷子の思い出

最近になってあの事件が起こってから、幼い頃に経験した迷子事件のことをよく思い出す。

小学校にあがる前だったから、昭和23年(1948)頃で5,6歳の時の話。隣村を一人で冒険していてふと我に返り、帰り道が分からないことに気付いて、火が付いたように泣き叫び始めた。道行くお姉さんが怪訝そうに見ながら通り過ぎて行ったことも覚えている。しかし、その後の記憶がなく帰宅してから、「僕泣いちゃった・・・」と家族や他の大人に話し、「そりゃあ無理ないわねえ」と慰められたことが記憶として残っている。

だが、どうやって家まで辿り着いたのかが不思議だった。母親が亡くなる前に入院の付き添いをしていた時、こちらが聞いたわけでもなかったがその昔話を語ってくれた。オフクロもその時のことを覚えていたようだ。見知らぬ親切なオジサンが自転車に乗せて自宅まで送り届けてくれたと云う。その記憶が全くない。よく自分の住んでる所の説明が出来たものだと我ながら感心する。幼い時にパニックになった思い出である。

大和くんが自衛隊の演習場の無人ハウスの中で発見されたニュースを聞いて、自分とのエライ違いに驚嘆してしまった。彼が泣きながら父親の車を追いかけたつもりが、方向感覚を見失って反対方向の山の方に向かったらしいこと、山林には入らずひたすら道を歩き続けたようだ。それも5時間くらい・・・。

そして暗い中で小屋を見つけたこと、鍵のかかっていない扉を見つけて中に入り、床にマットレスを見つけて自分で引きずり下して二枚重ねたこと、外に水道を見つけて飢えをしのいだこと、親が探していると思い小屋からは離れなかったこと、捜索隊ではない演習予定の別の自衛隊員が偶然発見したこと、それも雨になったため入る予定ではなかったハウスに入ったことなど・・・。

発見の経緯は偶然が重なったわけだが、ここまで偶然が重なるとこれはもう神様かほとけさまが導いたとしか思えない気がする。あさ吉の当時と比較して、いかに怖い思いをしたか。あさ吉は今でもはっきり覚えているが、青空の広がるいい天気だった。

大和くんは漆黒の闇の中で小屋に到達したと見られている。そして6日間を孤独の中で過ごしていた。途中で何度か泣いたに違いない。

あさ吉は大陸からの引揚者で貧乏のどん底にあった。両親は働いていて鍵っ子だった。出かけたときは多分家人や近くの大人は知らなかったのだろう。当時の村にはまだ幼稚園がなかったし、モチロン今のように保育園があるわけでもなかった。この放浪癖だけは今でもカラダにしっかりと染みついている。

と云うわけで、しつけで置き去りにされたわけではなかったが、この子の強運がきっと世の中に役立つことがあるような気がしてならない。

2014年8月 2日 (土)

asatoroおでかけ日記(136) 7月5日(土) 同窓会に1077名出席!

恒例となっている高校の同窓会が、今年も高輪のホテルで行なわれ出かけてきました。小雨が降っていることもあり、初めてホテルの送迎バスにお世話になります。JR品川駅前から系列のホテルに立ち寄りながら走るのですが、我々と同じ仲間らしい人達で、マイクロバスは満席でした。

asataroの実兄も出席。彼はわざわざ大阪から駆けつけています。しかも、毎年です。航空会社のOBですから、いつも飛行機を使っています。羨ましい話ですが、新幹線派のasataroはもう何年も空の旅には縁がなくなりました。

大阪から来る理由は、大阪での幹事をやっていることもあるようですが、やはり在京のメンバーと会いたいのでしょう。33年(昭和33年卒の意)は同期会の結束が強く、ナントいまだに会報を発行しているそうで、活字世代の栄光が残っているようです。兄も熱心な活動家?かもしれません。

兄弟姉妹は冠婚葬祭の時しか会う機会もなくなりましたが、そう云うことで兄とは7月の同窓会でもお互いの生存を確認できています。しかし、だんだんと歳をとって今年は後期高齢者の仲間入り。バイキングスタイルの料理を弟が兄のテーブルにも運ぶというボランティアをここ数年続けています。ですから、33年のテーブルでは「孝行弟」として人気があるasataroです。昨年の会報には会場での兄弟の写真が掲載されたほどです。

asataroは36年組。そして今年の同窓会を準備したのは平成2年卒業の後輩たちでした。その幹事団の中に珍しい名前の人達が数人見られ、案の定、36年の我々仲間の息子さんたちでした。直接の縁はない筈の超後輩たちですが、最近は誰それの息子さんであったり娘さんであったりして、それで初対面であっても話が弾むこともあり、歴史ある学校(四国の田舎ですが・・・)の同窓会のアリガタイところでしょうか?

今年の出席者は、1077名。ここ数年、連続して千名を超える大同窓会となっています。ですから、毎年の幹事団もこの伝統を断ち切ってはいけないと、各学年の幹事に動員がかかるようで、少しやり過ぎの感も・・・。

最後は旧制中学校、女学校、そして新制高校の3校の校歌が歌われます。モチロン、大半の出席者は新制高校のOBですから、会場割れんばかりの大合唱になるのは恒例の風景にもなっています。

出席して旧交を温めようとしている人たちは、間違いなく心身共に健全な証拠でしょう。母校に怨念を持つこともなく、いやな奴と敬遠する仲間もいない、そしてこの会合で漸く言葉を交わすことができた昔の少女もいるわけで、同窓会万々歳です。

2013年4月12日 (金)

あさ吉の思い出日記(38) 4月10日(水) 瀬戸大橋25周年

昭和63年(1988)の今日、本州四国連絡橋のトップを切って岡山県倉敷市児島と香川県坂出市との間に、瀬戸大橋(9.4km)が開通しました。道路と鉄道の2階構造の併用橋としては、現在でも世界最長を誇っています。

北海道や九州と異なり、四国は地形上、本州に半ば取り囲まれているような感じですから、どこに橋を架けるかが問題でした。そして、四国側の徳島県には対岸の兵庫県、香川県には岡山県、愛媛県には広島県がそれぞれタッグを組んで激烈な誘致合戦を繰り広げます。

当然、政治家にとっては甘い蜜が吸える美味しい世紀の大事業です。当時は(今も?)自民党土建型政治の全盛期(昭和40~50年代)でしたから、先生方もタイヘンだったと思います。

兵庫県の明石から淡路島を通って徳島県の鳴門に至る、明石鳴門ルートが先行して最有力視されていました。時の建設大臣河野一郎(河野太郎の祖父)もこの案を支持。ツルの一声で決まるやに見えましたが、そうはさせじと反河野派が結束。河野派は少数派でしたから、結局巻き返しを許してしまい、最大実力者の田中角栄が盟友大平正芳の地盤である香川県ルートを支持し、大勢が決まります。徳島県に政敵となる三木武夫がいたことも、明石鳴門には不運でした。

開通時には大平は既に他界していましたが、政争とは別に鉄道併用橋案で進める瀬戸大橋を支持する声は、当初から高いものがあったのは事実です。昭和30年に起きた紫雲丸沈没事件は香川県沖で発生しました。この事件から、架橋は四国全体の悲願でもあったのです。

開通式でテープカットに加わったのが、運輸大臣石原慎太郎。当時は人気政治家(現在は、ん?)でした。皮肉にも、11ヶ所の亀裂が発見されたとのニュースが同じ日の紙面に出ました。当時の運輸大臣に限らず、みんな歳をとってきたと言うことでしょうか?

2013年3月16日 (土)

あさ吉の思い出日記(36) 3月14日(木) 大阪万博

あさ吉27歳の春。昭和45年(1970)3月14日と言う日は、大袈裟に言えば日本国民の誰もが特別な想いを持って迎えた日でした。日本万国博覧会、いわゆる大阪万博が開幕した日です。春は名のみの寒い一日でしたが、大阪の千里丘陵に出現した未来都市に、大勢の人たちが押しかけました。

あさ吉は当時岡山にいました。仕事で何度も訪れることになりましたが、まだ山陽新幹線は開通していませんでした。日本全体が高度成長期で2桁右肩上がりまっしぐらの中にあった時代です。

もうあのような好景気の世の中は来ないでしょう。アベノミクスでいくら頑張っても、2%の物価上昇ですから・・・。今、跡地は万博記念公園になり太陽の塔がモニュメントとして、繁栄の証を今に伝えています。

その後、愛知万博・つくば科学万博・沖縄海洋博がありましたが、結局大阪を超える博覧会はなかったようです。熱気が違っていましたから・・・。

あさ吉も若さ一杯の青年でしたから、会場の中を隈なく歩いたものです。ただ、パビリオンだけは人気館に余り入れませんでした。?時間待ちの長蛇の行列に恐れをなしたものです。

上海万博には行きませんでしたが、その時の中国の熱気が当時の日本に似ているようです。寅さんの映画が始まった年でもあります。まだ、地方や葛飾の下町の風景は映画の中そのもので、それだけに万博の華やかさが際立っていたわけです。

日本が今のように低迷するとは想像もできなかった、シアワセな時代の話です。

2013年2月13日 (水)

あさ吉の思い出日記(35) 2月4日(月) 市川団十郎逝く

今朝、歌舞伎フアンに再び衝撃的なニュースが飛び込んできました。12代目市川団十郎の訃報です。中村勘三郎亡き後の大看板が亡くなるとは・・・。勘三郎さんは50代、そして団十郎さんは60代。共に円熟期にさしかかったお二人です。

病魔と闘ってこられたことも共通していますが、運命と諦めるには甚だ理不尽なことです。天は何故このお二人を召されたのか?歌舞伎フアンならずとも、多くの人に親しまれた大スターでした。

2010年10月28日、あさ吉は京都知恩院の御影堂で、団十郎さんの熱演を鑑賞させていただきました。演目は「黒谷(くろだに)」と言う、団十郎さん自身が書き下ろした新作です。それも法然上人800年大遠忌記念「総本山知恩院奉納歌舞伎」の為に、渾身の思いで創作し、熱演したものです。

主人公は黒谷の法然上人のもとで仏道修行している身で、歌舞伎の人気定番「一谷」の熊谷直実(出家して蓮生)と討たれた平家の公達敦盛(亡霊)の後日談でした。市川団十郎気迫の演技を、間近に拝見することができました。

共演は中村壱太郎、中村錦之助でした。その夜は人間国宝坂田藤十郎による白拍子のあでやかな舞の披露もありました。

まったく脈絡のない話になりますが、相次ぐ名優の若過ぎる死に、あさ吉は明治10年の維新三傑の相次ぐ死が重なって見えました。西郷・大久保・木戸が申し合わせたように相次いで亡くなり、明治政府は維新後最大の危機を迎えました。新歌舞伎座の杮落しを目前に控え、重大な危機に直面した歌舞伎界。

内容は異なりますが、明治時代には維新で活躍した若き志士達が、その後の日本を背負ってゆきました。同じように、神は次代の若き俳優たちに明日の歌舞伎界を背負って行けと、チャンスを与えたのかもしれません。

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