家族・親戚

2018年4月 5日 (木)

あさ爺の徒然日記(836) 4月1日(日) 孫と桜の公園へ

普段、なかなか会えずにいた息子の家族が訪ねて来てくれた。子どもたちもそれぞれの家庭で忙しく過ごしている。ヒマな老人とは違うのだ。隣町に住んでいるとは云っても、市が隣り合わせだけの話。しかし、横浜市はかなり広いので、車でも早くて30分かかる。ちょこっと立ち寄れる距離ではない。ホントは先週の週末にと打診があったが、いつもはヒマな年寄りにもこんな時に限って予定が重なってアウト。だからお互いに心待ちにしていた孫たちなのだ。

おさなごは少し見ぬ間に背丈も伸びて顔つきも幼児から子供へと成長している。上のお姉ちゃんはあさ爺一族にとってただ一人の姫君。両親が結婚して7年目にして漸く授かった愛の結晶だ。弟は遅れることわずか2年で誕生。両親はこのタカラモノのような2人に風変わりな命名をした。一度覚えてくれると忘れられない、2人一組でいかにもハマっ子とわかる。林市長から表彰されないのかなあ。

近所の公園で鉄棒、滑り台、ブランコ、シーソー、かけっこと遊びまくる。運動神経は良さそうで、爺とは違う。桜も満開、ちびっ子も花びらを集めては飛ばして、満面笑顔の楽しい一日だった。

2018年3月 8日 (木)

あさ爺の徒然日記(815) 3月8日(木) 孫を引き取りに・・・

EFG月例会の日だが欠席して、かねてより頼まれていた孫の一時引取に。早朝、王子の孫宅に向かうが通勤ラッシュと重なった。しかも、再び春の嵐が西から近づいているらしく、朝から雨になっている。

先日、インフルエンザが治ったばかりのお兄ちゃんとその弟だが、やはり兄は病み上がりのせいか元気がない。両親がどうしても外せない仕事が入っての救援活動。電車の中でも、いつもと違って静かなのは助かったが、裏を返せばしんどかったのだろう。夜、夕食も欲しくないと云って早々と寝てしまった。添い寝をしながら、この70年の歳の差があるおさなごたちを見て、いろんなことがじいじの頭をよぎる。

この子らがあさ爺と同じ齢になった頃、世の中はどう変わっているんだろうか?天皇さまは悠仁様だろうか、それともそのお子様の代だろうか?首相は少なくとも2,30人代わっているだろう。それよりも戦争のない時代が続いているか?南海トラフは?世界の情勢は想像もつかない。2088年の世界は、夢があり希望に満ちているとは、とても考えにくいカオスの未来だ。

2018年2月13日 (火)

あさ爺の徒然日記(793) 2月11日(日) 孫たちの努力の成果

昔風に云えば紀元節、今では「建国記念の日」。未明に南岸低気圧が通過したが、今回は雪にはならず弱い雨が降ったようだ。

都内でそれぞれの孫たちの努力の成果が楽しめるとあって、ジジババはいそいそと身支度してお出かけ。風邪は薬が効いてだいぶ楽になった。まずは上野の東京都美術館で最終日を迎えた学生書道展。これに小3のMちゃんの力作「大空」が展示された。奨励賞も受賞。新進気鋭?の書家でもあるカミさんがしきりに感心。婆ちゃんの素質を受け継いだのかな?

続いて日暮里へ出向き、Hくんの和太鼓の発表会を鑑賞。力強い和太鼓の演奏も、今年で3年目とあって更に自信が増したようだ。あの大きな音にもめげず弟のGちゃんは母親に抱かれて爆睡。孫たちはそれぞれにみんな一生懸命にガンバっている。頼もしい限りだ。

爺ちゃんも頑張らねばだが、これだけはいかんともしがたいものがある。曲がりかけていた腰の方は、百々子先生のマッサージを受けて、再び伸び縮みができるようにはなったきたが・・・。

2017年12月18日 (月)

あさ爺の徒然日記(742) 12月18日(月) 母の生涯

今日は母の誕生日。父の時にも触れたので、少しその生い立ちを辿ってみる。1909年(明治42)に福岡県八女郡岡山村大字蒲原で三女として出生している。しかし、まもなく大陸に渡ったらしく母から幼い頃の話は聞きそびれた。その時代に満州に渡ったには何らかの事情があったのだろう。

母の口から時々「本渓口」と云う地名がでてきた。そこで育ったのかもしれない。懐かしがっていて、内地のことは殆ど知らずにいたようで、息子のあさ爺はてっきり母は満州生まれと思っていたが、詳しい話を聞くことはできなかった。姉や兄が健在なので確認することは可能だが、父も母も外地の話を積極的には語らなかった。

すべてを失い、辛酸をなめた引揚げ体験で、心の中ではリセットしてしまいたかったのではないか?従って、こちらも敢えて聴こうともしないまま、15年前に父の十三回忌を目前に他界した。享年93歳だった。今、家の中で何枚かの写真を掲げている。その中に両親があさ爺の家族と自宅前で撮ったものがある。訪ねてきた孫たちとの記念写真。大きなぬいぐるみをかかえた幼稚園児の孫娘と中学生のその兄。それぞれ今では2児の親になっている。

2017年6月 1日 (木)

あさ爺の徒然日記(567) 5月20日(土) 孫の体操教室見学

東京北区に住む娘の家族に会うため、王子に向かう。家族にと云ってもジジイの目的は末っ子のG君のお守り。お兄ちゃんのH君が体操教室に出かけている間の留守番を、Gと爺がやることになっていた。

2人が先に出かけた後、Gを連れて王子駅でカミさん、つまりGのおばあちゃんと待ち合わせ。都電荒川線で池袋四丁目下車。チンチン、ガタゴトと云うちんちん電車特有のBGMでGは爺の腕の中で熟睡。

メトロに乗り換えて小竹向原へ。駅から徒歩15分くらいの所に目指す体操教室はあった。ネットで探したらしいが、通うのは楽ではなさそう。アクロバットスタジオとやらの看板が出ていて、それだけで運動オンチの爺は尻込みする。

勉強は苦手だが、運動は更にダメ、と云うのが自慢じゃないがあさ爺の小さい時からの姿でありました。初心者クラスの中でも、目立ってチビちゃんのHが飛んだり跳ねたりして、お~可哀そうに・・・と思うのがジジババの感想。至って意気軒高の母親は、両親に似ることがなくて幸せだったのかも。

2017年5月 5日 (金)

あさ爺の徒然日記(559) 5月5日(金) 一族の話題は「お墓」

昨日の一族が揃ったお話の続き。大人たちの会話は、老い始めた両親つまりあさ爺夫婦の話題。介護は飛び越えて、お墓をどうするか?と云う、タブーもそっちのけのあけっぴろげで遠慮のない話が飛び交う。さすがに婿さんと嫁さんは進んで議論には入り辛いのか、上目遣いで様子伺い。

こんな話が「議題」に上るのも、あさ爺の怠慢でまだお墓を建てていないことにある。息子や娘にすれば、お墓位は自分たちで決めておいてくれと云うのがホンネなんだろう。余計なお金を出したくないと云うことか。あさ爺は次男坊なので、親の墓には入れない。しかし、その両親は郷里四国の風光明媚な公園墓地で眠っている。

あさ爺の本音は、そこの墓地の一角でも悪くはないなと。郷里に縁者が生存中は、未亡人となったカミさんも、彼女の親戚と一緒に墓参りも可能だ。しかし、首都圏に住む子供たちは誰も来ないのだろう。それにふるさとは遠きにありて思うものと、郷里をはるか昔に去った人間が、お墓だけを建てるのもいかがなものか?

と云うわけで、今住んでる町の公営墓地を希望しているが、これは遺骨を保持していることと、年1回程度の公募による抽選が条件。あさ爺は更にロッカー式の納骨堂よりも、芝生墓地に憧れている。つまり、死後はマンションではなく平屋でも戸建ちがいいと思っている。しかしながら、そもそもカミさんは海への散骨を希望してる。ロッカーはともかく海は苦手だ。残された遺族がお詣りのしようがないではないか。

昨日は結論がでないまま、つまり議論はハカバカしいものではなかった。これを機会にマジメに考えてみよう。ボチボチと・・・。

あさ爺の徒然日記(558) 5月4日(木) 孫、全員集合!

昨日の午後に到着した都内在住の娘夫婦は、子ども2人を親に預けてテラスモールへ出かけた。育児に追われて夫婦でお酒を飲みに出かけることもままならず、実家へ帰った時は羽根を伸ばす貴重なチャンスなんだろう。孫2人も心得たもので、祖父母にべったり甘えて過ごす。まだ2人とも、保育園児だ。

一夜明けて3連休の中日の今日は、横浜に住む息子一家が到着。しかし、その前に朝、食べたパンにアレルギー性物質が含まれていたらしく、5歳半の兄のHくんが急に具合が悪くなり、嘔吐を始めたりしてゲンナリしてしまった。爺はオロオロするばかりだし、婆やも食べさせた責任感もあって孫の背中をさすったりして懸命に看病?する。

彼が横になっている間に、気をきかして息子の家族のお姉ちゃんであるMちゃんと弟のMくんは両親に連れられて、近くの公園に出かけた。2人は小学生(3年と1年)だ。ここの滑り台が変わっていて面白いらしい。後からやってきた娘一家の弟Gくんもハマってしまった。まだ3歳未満なのだが・・・。

大人は尻込みしそうな急で短い滑り台、見ていても子どもと滑った父親が地面にしたたかにしりもちをついて顔をしかめていた。最初の内は少し遠慮がちだった子どもたちも漸く本来の遊び好きな少年少女になって、家に戻る。すっかり吐いてしまって、元気を取り戻したHくんも交えて、家の中はいつもの大騒ぎとなった。

あさ爺夫婦の一族10人が揃うのも、首都圏で暮らしながら、なかなか難しい。子どもたちも元気になったところで、婆や自慢の手料理でランチを楽しむこととあいなった。今日のメインはさまざまなオハギがテーブルいっぱいに並んだ。一日早い端午の節句を祝う。

2016年3月11日 (金)

あさ吉の思い出日記(44) 3月11日(金) 5年前のあの日

被災地では各地で追悼の行事が行なわれた。東京では政府主催の追悼式が両陛下ご臨席のもとで開催されたし、鎌倉の雪ノ下カトリック教会では宗教・宗派を超えての合同慰霊祭も行なわれた。テレビでは各局が朝から晩まで関連番組を流している。

政府主催では安倍首相の白じらしい挨拶で文字通り白けた感じだったが、天皇陛下の誠実なお言葉がその後にあり、救われる思いであった。それにしても首相の言葉の誠意の無さは何としたことか?保育園に落ちたママの叫びではないが、一晩でも避難所で寝てみたらどーか!閣僚全員が仮設でもいいから1週間寝泊まりしてみろ!!と・・・。

大体ナンデ追悼式に君が代を演奏するのか?あさ吉は君が代肯定派だけど、今日ばかりは違和感があった。まだ「花は咲く」でも全員で合唱した方が良かった。開式宣言をナンデ官房長官のS氏がやるのか?東北の民放の女子アナにでもやって貰ったらもっと良かった。

でも鎮魂の日にグダグダ言っても犠牲者や被災者の心は鎮まらないだろうし、あさ吉も血圧が上がるだけ。復興は道半ばで、5年前のことを「想い出」にすることには抵抗があるが、敢えてあの日のあさ吉一家はどうしてたか・・・。

老夫婦2人とも幸い在宅していた。翌日に控えた我が家にとっての一大イベントに落ち着かない時間を過ごしていた筈だ。少なくともカミさんは明日着てゆく衣装をどれにするか最後の準備に余念がなかった筈だ。ま、平和な午後を過ごしていたことは確かだ。

そして、突然襲ってきた激しい揺れに、食器棚の上から瀬戸物が床に落下。木端微塵に砕け散った。あさ吉は倒れそうな書棚を必死に押さえ続けた。お互いに怪我はなかった。しかし、我々夫婦は揺れがおさまってから茫然自失となる。被害のことではない。「明日」のことを心配したのである。心配を通り越して、予定は白紙になると覚悟したのである。

それからの2日間、我が家族は親戚を巻き込んで混乱するハメになる。何があったか、何を予定していたのか・・・。娘のハレの結婚式だったのである。

内の受験祈願で有名なY神社が式場だった。娘が小学生からお参りを続けて、大きなご利益を得て本人が挙式に選んだ神社。披露宴は御茶ノ水にある老舗ホテルだった。結果的に神社もホテルも被害はなく、「予定通り」に事は進んだ。

しかし、我々が自分たちのことばかりを心配していた間に、東北沿岸を中心に大きな悲劇が進行していたのである。モチロン知らなかったわけではなかったが、余裕がなかった。段取りしていたスケジュールはすべてご破算となり、会場にたどり着くまで本人を含めて親族も皆大変な苦労を強いられたことは云うまでもない。

前日に四国から駆けつけた新婦の伯母は、彼女の息子つまり新婦の親しい従兄と恵比寿にいたところで地震に遭遇。すべての交通機関がストップした中で、息子の住んでた調布まで歩いたそうである。同じく大手電機メーカーに勤務していた別のいとこは、その後福島の事故で不眠不休の事故対応に当たることとなる。

そしてなにより新婦側の招待客が激減してしまった。同僚はほとんど災害対応の現場に飛び込んだのである。総員出動の指令が出て関東や東北に散ったのである。娘は外してくれたが、その後の生活が一変したことは確かだった。

あれから5年経った。つまり、明日は娘夫婦の5年目の結婚記念日。2人の子どもにも恵まれ、ジジババは孫の遊び相手になっている。我が家にとっての3・11は複雑な思い出となって、記憶に残り続けているのである。

2014年7月28日 (月)

asajiroの湘南日記(109) 6月27日(木) 孫の絵

梅雨空の一日でしたが、asajiro一族には明るい話題が飛び込んできました。横浜に住む孫のMちゃんの描いた絵がテレビに出たのです。

NHK・Eテレの「おかあさんといっしょ」に投稿した絵が放映されたのです。全国放送ですから北は北海道から南は九州・沖縄まで・・・。と云うわけで爺バカのasajiroは目じりを下げています。

この番組、爺さんも一度出たことがあります。ナゼか、鎌倉のガイドさんと云うことで「にほんごであそぼ」というコーナーで早口言葉に挑戦。ロケは鎌倉駅にほど近い本覚寺の境内で行なわれました。舌がもつれて、しどろもどろになった哀れな姿が、全国に流れました。

その後、各地の知り合いから電話が「殺到」(大げさです)したのです。誰も見てないだろうと思っていたのですが、孫とテレビの前に座っていたお知り合いの方々から「見ました~!」との悲鳴に近いコールが・・・。考えてみればasajiroの世代は孫とテレビを見ながら、赤ちゃんがえりしている年頃なのでした(笑)。

きっと、Mちゃんの絵も彼女(そ、初孫でカワイイ女の子なのです)を知る人たちの間で大騒ぎになっていることでしょう。まずは、幼稚園の同級生の保護者やセンセイが見ていたかもしれません。もう一組のジジババが暮らす大阪でも話題沸騰。番組はたしか『やぎさん ゆうびん』というコーナーでした。子ども達から届いた絵や手紙をやぎさんがスタジオで司会のお兄さん、お姉さんに渡して披露する趣向。

かくして、Mちゃんは彼女の両親より早くテレビデビュー(顔は出なかったけど)したことになりました。今日は、ジジばかの話題を湘南のスタジオから全国の皆さまにお届けしました。

2014年6月 7日 (土)

asajiroの湘南日記(108) 5月22日(木) 4人目の孫

asajiroにとって4人目の孫が誕生しました。すっかりベテランの祖父(じい)さんとなったasajiroは目じりが下がり放しです。

初孫のお姉ちゃんだけが女の子で、後に続く精鋭の孫部隊は勇ましいオトコの子です。どうやら我々一族は男系のようです。4人目の孫ちゃん、仮にGくんとしましょう。そのGくんは15時58分に生を受けました。

母親が入院したのは12時頃でしたから、ほぼ4時間後に無事誕生したわけです。彼の父親が急遽仕事を切り上げて車を飛ばして駆けつけ、それを待ってたかのように5分後に産まれたそうです。ちょうどその頃はこの地方一帯に雷が鳴り響いていました。昔流に云えば天地鳴動していました。

こうして連綿とイノチが受け継がれてゆくことに深い感動を覚えます。asajiroもはるか昔のご先祖さまからイノチをいただいてきています。お目にかかっていないどころかお名前もわからないご先祖ですから、手を合わせて感謝の祈りを捧げるしかできません。

生後間もない赤子はまだ目が見えないそうです。見えるようになるまでには個人差もあるでしょうが約1週間くらいかかるとか。17時ちょうどに祖父さんはGくんに初対面のご挨拶をしました。両親と医院の関係者以外では初めて会った人物と言うことになります。看護師さんの腕の中に抱かれているGくんはモミジのような可愛い手を動かしていました。ジジばかでしょうか?じいじを見つめてにっこり笑ったように見えました。(見えてる筈はないのに・・・)

Gくんはどのような子に育ってゆくのでしょうか?そして凛々しい青年になってくれるのでしょうか?残念ながらasajiro祖父さんは、この子の結婚式でお相手のお嬢さんに会うことはできません。約30年後であれば、それは仕方のないことです。

しかし、しかしです!今の総理大臣が熱心に進めている集団的自衛権がもし実現すれば、憲法の保障する基本的人権も解釈変更が可能になります。少子高齢化社会で、自衛隊も兵士確保が困難となります。つまり、今のニッポンではあり得ないと思っていた徴兵制が復活・・・。

孫たちをあの暗い時代に戻しては絶対になりません。これだけは無心にスヤスヤと眠り続ける孫の寝顔に誓うasajiroでした。心配性のじいさんの杞憂に終わることを念じて、ココロの中で「お誕生、おめでとう!」。

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